2012年7月11日水曜日

いじめは大人の問題

(向日葵が咲いた)
    いじめが原因とされる、子供の自殺が後を絶たない。結果が生じた後で、大人が大騒ぎしても自殺した子供の命を取り返す事は出来ない。しかも、傍から見ると陰湿ないじめも、いじめている子供にすれば、遊びの内なのかもしれないと思うと、もっと事態は始末が悪いと思うのです。
どんな理由や環境で、幼い子供のうちから、いじめと言った感覚が生まれてくるのだろうか。いじめている子供の側も、最初から仲間内の子供を自殺に追い込む意図があったとは、どうしても考えられません。とすれば、後天的に生まれる子供の心の変化は、やはり家庭に帰するのではないかと、私は考えざるおえないのです。
勿論、感受性が強く、スロレートな子供の心は、いち早く時代の空気を敏感に感じ取り、その影響をどの年代よりも強く受けていると言う事を認識した上での思いなのです。
学校の教師、ましてや教育委員会の人間が、いじめのあるなしを確認しなかったとか、いじめた子供達にいじめを確認しなかった、等の問題は本来事後的問題で、問題の本質では無いと思うのです。
(木槿むくげの花の季節)
日本の教育政策と教育現場にとって、その存在自体が疑問視され、むしろネックとなっていると思われる教育委員会や硬直的教育行政に、最初から期待すること自体もナンセンスだと思われます。むしろ、仲間内の何人かの子供同士で、多分一人か少数の子供をいじめる等の行為の根本原因が何処から生まれてくるのかを、探らなければならないと考えるのです。
そこで、私が考えますのは、生まれた時から関わる両親の基本的な教育の問題に、言及せざるおえません。
学校や教師、更に同じ年齢の他の子供達の責任を論ずる前に、いじめた子供の両親、いじめられた子供の両親が、其々の子供とどう向き合って来たのかを、冷静に考えるべきでは無いでしょうか。そこに解決の結論を導き出さねば、根本的な解決策は無いと思います。現在の教育現場の現状を考えると、学校や教師に過大な期待を持つ事は出来ないと考えるのです。
勿論、仲間内の子供を自殺に追い込むほどのいじめに関わった子供の矯正は、検討されなければなりませんが、それも、元々事後的な問題であり、これから先、子供によるいじめが原因とされる自殺という、悲しむべき出来事の根絶の為には、どうしても、生まれて以降、成長過程での子供に対する両親の考え方、愛情のかけ方、子供のしつけ方等の家庭を出発点とした過程を再考すべきでは無いかと考えるのです。
(綺麗なカサブランカ)
多くの専門家と言われる人達がこの問題に取り組んでいると思われますので、躊躇う事なく子供の成長過程で最も影響が及ぶと考えられる、両親とその家庭に踏み込んだ考察と正しい指摘がなされるべきでは無いでしょうか。
幼児や子供に対する虐待もあとを立ちません、いずれの問題も、その大元の原因が大人、特に子供を持つ親の資質に及んできていると考えるのは、おこがましい事なのでしょうか。
こう考えると、いじめ問題の結論はほとんどの場合、家庭と両親の問題に帰結するように思えて成りません。集団での規律、他者へのいたわり、それに、人としての正義感は家庭と両親から生まれてくると信じています。
(ペチュニアの寄せ植え)

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