2011年11月29日火曜日

NHKのインタビュー番組

 28日夕方、大阪のダブル選挙で「大阪維新の会」の圧勝をうけ、NHKが論説委員と共に、府知事に当選した松井一郎氏へインタビューしている番組を見ていた。其の時、NHKの論説委員が、語気を強めて、大阪都構想の具体性について此れまで明快で判り易い説明が無く理解しずらい旨の、高飛車な問い掛けをしているのを見て違和感を感じたのは私だけでしょうか。
 まず、単純に考えて、多くの地方行政組織の停滞と、その行き詰まりに付いて、肥大化し重なり合って執行される行政サービスの統合について、一元化による簡素化を考える事は、取るに足らないことで、その意味を推察す事が、そんなに難しい事なのだろうかと感じた。
 確かに、府、市を統合すると言っても、国政の場での検討と、地方組織に対する法律の改正無くしては、実現しえない事は分っている。まして、其のメリット、デメリットは精緻に吟味検討しなければなら無い事は、言うまでも無い事なのです。しかし、維新の会が提起した地方行政組織の簡素化についての考えに、地域住民の大きな期待の表れが今回の選挙の結果だと、好意的に受け止める事が、そんなに難しい事なのだろうかと思った。
 だとしたら、そこに、NHKと言う準公共企業体でしか仕事をしてこ無かった浅薄な人間の思考回路が、無意識の内に既存の体制を基準にして物事を組み立て、革新的な提案に対して、心の中で知らず知らずに反発心を覚えるのでは無いかと思えた。
 20年に及ぶ経済の低下縮小で、日本の第二の都市としての大阪の基盤は、もう既に、半分崩れていると言っても過言ではありません。いや、辛うじて体制を保つ東京中心の首都圏も含めて、日本全体で国民生活は、大きく損われて来ているのが現状です。
 それに対して、国、地方の行政サービスに携わる公務員は、戦後延々と、細々した法律を自ら駆使して、自分達の権益を整備し、一般国民を置き去りにして自己増殖を繰り返してきたと考えられるからです。それは、無意識の自己増殖で、彼らには、たぶん悪気は無く、単に日本経済の環境悪化に対する自己防衛だったのかも知れません。民間とは違って、一度、公務員が手に入れた既得権は、下方硬直的で、容易に下がる事は有りません。
 今日も、自動車取得税や重量税の廃止が財界から要請されていますが、すかさず、財務省は税収不足に繋がると反発しています。曰く、税収不足は、赤字国債の増発によって更なる財政悪化を招くと。日本の財界も財界だと思うのですが。
 そこには、国の行政経費の見直しによる、徹底した支出削減と言った言葉は舌の奥にしまい込まれます。自らの、身を削る事に対しては貝のように口を閉じるのです。
 地方から上がった、行政組織の縮小化の狼煙を、国の政治家や官僚は眉をひそめて見ています。要するに、現政権にしても現状の政治家に、抜本的な改革を実行できる能力を持ち合わせている政治家は、ほとんど居無いと言って差し支えありません。其の証拠に、まず増税案が先行し、其の事で頭が一杯なのです。残念ながら、学生の部活動を見る様な今の内閣では、抜本的な改革の方策も展望も持ち合わせて居ないと思われます。国会議員の定数削減でさえ、遅々として検討されないのです。
 一億二千六百万人に対する行政サービスの総経費が、現状の国、地方を足した税収の何割を占めているかについて、財務省の資料で確認する事は出来ますが、政治家はあえて明らかにする事は有りません。 それは、自らも含め日本の行政組織に関わる者達の、既得権が掛かっているからだと思われます。
 大阪に現れた若者が主張する、突拍子も無い提案が、この先どう言う展開を見せるか、そして、それが日本の国、地方の行政組織改革にどんな影響を与えるのかを、注意深く見ていかなければと考えています。そして、出来ればそれを、多くの有為な人材が現れて、支えていく展開を見る事出来ればと思うのです。

2011年11月28日月曜日

もう一度松江城へ

  今回の自動車旅行の目的だった、安来の足立美術館での観賞を終えて、私達は、境港に向かう事にしていた。方向としては、9号線で米子まで戻り、米子の市内を北に向かう事になる。米子市内を北に抜けると、海沿いにとても良い道が境港方面に向かって一直線に伸びていた。
 NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」で一躍人気に成った、境港の水木しげるロードに立ち寄った後、本当は、島根半島の東の先、美保関町まで足を伸ばすつもりだった。ところが、昨日の岩風呂で地元の人から、松江城の堀川めぐりを勧められた事で、計画を変更して境港から中海の北側を松江城へ戻る事にした。
 腹ごしらえも兼ねて、境港の水木しげるロードに立ち寄ったが、そこは、私達には場違いのスポットだった。なにか、ドサクサに、妖怪漫画にかこつけて、とってつけた様な店が並び、それも素人の手による儲け主義が顔をのぞかせて、がっかりした。
 早々に、境港を離れ、中海の北側を西に向かうと、ナビの案内で、左右が海の細い真っ直ぐな道に出た。水際のすぐ傍を走るので、まるで海の中を走っているような感覚で、とても綺麗な景色だった。
 最初の目的地の出雲大社へは、9号線と山陰道の高速道路で一気に米子ICから出雲ICに向かい、出雲大社へ、そこから、松江市内には宍道湖の北側の湖岸を走って松江城に、9号線沿いの安来からは中海の東側を走って境港、境港から中海の北側を松江市内に戻るルートを走ったので、トータルで、宍道湖と中海を逆S字で走った事に成る。
 2時に松江城の堀端に戻って来て、早速、堀川めぐりの船の切符を買った。アンディーもゲージに入れて乗船。怖がる事も無く、ゲージの隙間から興味有りげに覗いていた。
 40分ほど掛けて、内堀から市内を通る外堀に出て、お城の周りを巡って帰ってくるコースだ。幾つも堀に掛かった大小の橋をくぐり、橋げたが低い場所では、遊覧船のホロを下ろして、下をくぐった。遊覧船は、底の浅い和船の造りで、今の時期は船の中にコタツが入っていて、冬支度になっている。
 白壁が続く武家屋敷や小泉八雲の記念館の傍を通り、帰りの外堀から内堀に入ってくると、船の中からお城の天守閣を望む事が出来た。船の中では 船頭の安来節も飛び出し、ご当地の風情を感じる遊覧であった。
 帰りに島根の物産館にもう一度立ち寄ってから、宍道湖大橋を渡り、宝塚に向かう帰路に着いた。午後4時を過ぎていたが、この時初めて、通り雨に会った。其のおかげか、米子道に入って、奥さんが、薄暗くなる前の大山に虹を見つけて声を上げていた。
 帰り道に蒜山SAに立ち寄ったが、その後も帰路は順調で、7時半過ぎに自宅にたどり着いた。
 22日の朝、7時半に家を出発して、23日夜、7時半に帰宅すると言う、行程730キロの秋の小旅行を、無事帰ってくる事が出来た。

2011年11月27日日曜日

足立美術館を訪ねて

 以前から、人伝に島根県安来市の足立美術館の存在は知っていた。倉敷市の美観地区にある大原美術館は、今までに、3度ほど訪れているが、今回初めて足立美術館を訪れてみて、其の日本庭園の造形美の素晴らしさと、横山大観の所蔵絵画他日本近代画壇の充実したコレクションに驚いた。特別に興味も持たず、深く調べた事も無かった美術館の事が、普段から耳に入っていたと言う事は、多くの美術愛好家に早くから認められている美術館なのだと、あらためて感じました。
 入り口を入って歩みを進めると、そこに、まず大きく透き通ったガラス窓の向こうに、絵の様に浮かび上がる庭園の紅葉が目に入って来た。廊下を進みながら窓の外を眺めると、広大な日本庭園が広がっている。それも、歩を進め、見る角度によって違った景観が次々に楽しめる趣向に成っていた。日本古来の「枯山水」の庭とは趣を異にしていますが、米国の日本庭園専門誌のランキングで、8年連続日本一と言うのも頷ます。手入の行き届いた日本庭園の造形美が、私達の目を楽しませてくれました。
 この美術館を造った安来市生まれの実業家足立全康氏の生い立ちが、氏の写真と共に掲示されていた。大八車で炭を売ることから身を起こし、個人のコレクションを基にして、昭和45年71歳で出生地の安来市にこの美術館を開館したと言う経緯にも驚いた。と言うのは、横山大観の所蔵絵画だけで130点にも及ぶもので、撮影禁止で写真を掲載する事は出来ないが、竹内栖鳳、橋本関雪、河合玉堂、上村松園、伊東深水、山口華揚、平山郁夫、などと言った、横山大観だけでなく、蒼々たる日本画壇の巨匠達の作品を観賞する事が出来たからです。
 此れまでに、京都市立美術館や大阪天王寺美術館、それに神戸市立美術館等、主に関西の近場の美術館で絵画展は何度も観賞する機会が有りましたが、それら巨匠達の名前が、日本画の知識のほとんど無い私の頭の中に有ったとしても、ミレーやゴッホ、セザンヌといった欧州近代絵画の巨匠達の作品と同様、何時何処で其の作品に触れたのかの記憶は有りません。
 学生の頃の美術史の教科書に出てくる様な絵画を目の当たりにし、新館では、民藝派の河合寛次郎や、北大路魯山人と言った、名だたる陶芸家の作品を鑑賞する事が出来ました。
 所要時間は1時間半を越えていましたが、庭園を望むコーヒーラウンジでのひと時も、遠方よりわざわざ訪れた、美術館の余韻を感じさせる物と成りました。

色紙 「雨霽る(あめはる)」 横山大観

色紙「紅葉(こうよう)」 左隻 横山大観
(此れは、色紙として販売されている横山大観の代表作です)

 私が思っていた通り、車に戻ると、中で待たせていたアンディーは、助手席に包まって眠りこけていました。

2011年11月26日土曜日

さぎの湯温泉 安来宛

 安来の足立美術館での日本庭園と絵画や美術品の鑑賞を、23日に予定しており、午後4時頃には松江市内を離れて9号線と山陰道を乗り継いで、宿泊先の安来の旅館に向かった。
 米子西ICと出雲ICの間は所どころ高速道路の無料区間が設けられていて、9号線のバイパスの様に成っている。たぶん、其の区間は生活道路を含んでおり、其の区間を無料の区間としているのでは、と想像した。4時を過ぎてから松江市内を出たが、安来まではそれほど時間も掛からず、日が落ちる前に旅館に付く事が出来た。其の日に宿泊を予約している安来苑と言う宿は、着いて見るとすぐ斜め前に足立美術館があり、入館中は車の中でアンディーを待たせるつもりでいた私は、少しホッとした。賢いアンディーは車の助手席のムートンにうずくまって、寝ながら待ってくれるとは思っているが、遠くの駐車場に残しておくより、近い所で、なにか安心する気がした。それと、足立美術館のある場所は、さぎの湯温泉という小さな温泉街になっていて、近くには小奇麗な旅館も何軒かあった。
 ただ、私達が宿泊を予約した宿は、玄関口から少し古びた建物で、それでも、三組の当日の宿泊があるらしく、玄関先に歓迎の名札が掛かっていた。
玄関を入ると、眠そうな目をした中年の女性が出てきて、形通りの挨拶をして、此れも、少し古びた薄暗い八畳間ほどの和室に案内された。
 奥さんと私は顔を見合わせて、しまったと思ったが、何よりアンディーと一緒に泊まれる宿で、やけに安いと思ったが他に無かったのだからしょうがないと頷いた。
 夕食をすませてからお風呂に入る事にして、部屋にアンディーを残して別室の食堂に向かった。食堂のテーブルには、地元の刺身や小振りのカニ、どじょうの柳川風の小さななべや、此れも、小振りの器に出雲そばなどを並べていて、箸をつけると、どれも美味しく感じた。特に宍道湖の蜆の味噌汁と地元のもずくは私の口に合って、思ったより食事は悪くなかった。
 風呂は、露天風呂もあったが、私は岩風呂の温泉に入った。湯ぶねの淵に座っていた人に、どちらからと声を掛けられ話に乗ると、地元の人で温泉に入りに来たらしく、松江城に行った話しをすると、堀川めぐりの船に乗られましたか、と訪ねられた。時間が気になりパスした事を言うと、松江城のお堀をめぐる船から見る景色が良いんですよ、と教えられた。
 翌朝は、9時の足立美術館開館に入ろうと、7時に朝食をとったが、この朝食が、又、美味しかった。以前、島根の浜田で食べて美味しかった笹カレイが出て、美味しく頂いた。部屋は古びてシャビーな感じを受けたが、宿泊料金が安い割に、食事が美味しかったのが良かった。
 私が朝風呂を済ませて、私達は旅館をチェックアウトし、奥さんお目当ての足立美術館の入り口に向かった。

2011年11月25日金曜日

松江城と城下町

 出雲大社の参拝を終え、県道431号線を東に暫く走ると、右手に島根ワイナリーと言う施設が見えて来た。そう言えば、途中、葡萄畑を見掛けた。以前、山梨方面に旅行した時、甲州の葡萄畑を見掛けて以来だった。
 ワインの試飲販売やバーベキューハウス等を併設していて、相当広い施設に、次々と観光バスが入って来て、団体客で賑わっていた。私達もアンディーを車で留守番させ中に入った。奥さんは次々にワインを試飲して回るが、グラス一杯のワインで顔が真っ赤になる私としては、そう言う分けにはいか無い。
 奥さんが、土産用に買い物をする間、アンディーを車の外に出して風に当てながら待った。
 そこから、東に向かって車を走らせると、宍道湖の湖畔沿いの道に出た。奥さんが、前もって買っていた「るるぶ」の情報誌では、湖畔沿いに野鳥の観察が出来るフォーゲルパークと言う施設や県立のフラワーガーデンと思われる、イングリッシュガーデンと言う立派な施設がある。
 私達は、休憩も兼ねて、そのイングリッシュガーデンを訪れた。綺麗に手入がされた施設で、バラやハーブが植えられ、施設の奥は、宍道湖岸に面していて、ベンチから湖面が日に照らされた景色を望む事が出来た。
 そこを後にして、当世風のホテルが立ち並ぶ松江しんじこ温泉街を左に見ながら宍道湖の湖岸を通り過ぎて松江市街に入った。ナビの目的地は松江城をセットしていて、中心街を進み官庁街を過ぎると、前方にお城が見えてきた。
 私は現役の頃、四国の松山に勤務した事があり、現地に着任した折、タクシーの中から松山城を見てホッとした時の気持ちを思い出した。
 地方都市のお城を囲む市内の景観は、昔の城下町の趣を残していて、以前から好ましい感じを持っていた。
 松江城を囲む堀の側に有る島根県物産観光館の駐車場に車を停めて、二番目の目的地である、開府400年の松江城の見学に向かった。
 松江城は、1607年(慶長12年)関が原の合戦以降、浜松城主だった堀尾吉晴が築城し、京極氏を経て徳川家康の孫の松平直正以降は、幕末まで親藩の松平氏が城主を務めたお城との事です。石高は18万6千石で雲州藩とも呼ばれた。そして、明治維新まで一度も戦乱に巻き込まれた事の無いお城として、今日に至っていると説明されていた。私達夫婦がお城に登るのは、随分以前に熊本城に立ち寄って以来になる。
 天守閣自体はこじんまりしていて、それほど威容を示す物では無かったが、宍道湖を望む天主からの眺めは、美しい眺めだった。アンディーも持参したゲージに入れて天守閣まで連れて上った。
 当日は天気も良く、安来の宿に向かう迄、市内の主だった町並みを見ながら堀端までの町歩きで時間を過ごした。

2011年11月24日木曜日

出雲大社を目指して

 11月22日、兼ねてから計画していた島根県の出雲、松江、安来の旅を決行した。大げさだが、後ろ足の膝の関節が自然脱臼していると診断されているアンディーを連れての自動車旅行になる。
 以前から、奥さんが島根県安来市にある足立美術館に、一度、行ってみたいと話していた。陶芸をしている仲間から、其の庭園の美しさや充実した所蔵絵画の素晴らしさを聴いていて、其の美術館を訪れる事も今回の自動車旅行の目的でもあった。
 日程を、もう少し早くすれば良かったと思ったが、紅葉の見ごろ等を考えている内にこの時期になってしまった。ただ、山陰地方の日本海側特有の気候は、天気が変わりやすく、中々、週間天気予報を見ていても良い日取りを選ぶのが難しかった。それと、ペットを同伴して泊まれる宿が安来の足立美術館の側に見つかった事も、今度の旅行を決めた理由でもあった。ペットを飼っている家庭は随分多いが、まだまだ気軽にペットを連れて泊まれる宿やホテルは少なく、特に、外ではペット連れで入る事の出来るレストランや飲食店はほとんどと言って良いほど見つから無いのが実情だ。
 山陰地方の自動車での旅は、この時期、雪が降り出す前のぎりぎりの日程だったのかも知れ無い。
 せっかく、安来まで行くのなら、島根県の出雲地方の見所を周ろうと言う事になって、最初に、出雲大社を訪れる事に決めた。かねてから噂に聞く、壮麗な出雲大社の参拝を目指す事から今回の自動車旅行が始まった。
 朝、7時15分に自宅を出発し、中国自動車道の宝塚インターに入ったのが7時40分。当日は、晴れ女を自負する奥さんの神通力で、朝から青空の下、快調に岡山方面を目指した。
 2時間ほどで岡山の落合インターから米子道に入った。目的地には、11時30分に到着予定とナビが告げていた。米子道を進むに連れて蒜山高原に向かう山々の彩りも秋の深まりを感じさせ、周りの景色を見ながら行くのも自動車旅行の
楽しみになる。
 途中、大仙の景色が快清の空に現れたのには、夫婦で歓声を上げた。
米子道から9号線と山陰道を乗り継ぎながら、終点の出雲ICまで一直線に走った。下道に出て、出雲大社の参道近くに入ったのは、予定通りの11時30分すぎの事だった。
 出雲大社の本殿は、2013年の9月まで改修中で、仮拝殿で参拝を終え、御仮殿の前から境内を歩き、大国主命と因幡の白兎の像を写真に収めた。


 出雲大社で1時間ほどを過ごした。車中で持参した弁当で食事を取ってから、次の目的地である松江市街を目指して、宍道湖北側の一般道に入った。

2011年11月19日土曜日

ファミリーに新しい命

 2011年11月18日午前、身内に新しい命が誕生した。私が、友人と京都の比叡山延暦寺の駐車場に着いたとたん、携帯が鳴った。豊中に住む弟からの電話だった。第一声は、「生まれた」という声で、私は、其の事をすっかり忘れていたが、弟の長男に待望の第二子が誕生した知らせだった。「両方とも元気や!」と言う子煩悩で、口数が多くない弟の声が弾んでいた。
 男の子二人の子供に、二人ずつの子供が誕生して、孫が4人になった記念すべき日だった。さらに、彼には女の子の孫は初めてで、夫婦とも無事な出産を待ち望んでいた。
 今年、次男にも第二子に男の子が誕生して、にぎやかな家族になっていた。弟の家は何時訪ねても、どちらかの孫が来ていて、家の中は、お婆さんも含めて三世代同居の様相を呈しており、仕事が忙しい夫婦にとってそれが活力になっているのかも知れないと思っている。
 ましてや、女の子を育てた事のない夫婦にとって、女の赤ちゃんは新鮮な喜びなのだろう。又、夫婦は忙しくなりそうだ。
 私達の身内には、独立した若い子供達が次々に子供をもうけたが、当面、この子が最後のファミリー参加者になるのかも知れないと思った。と言うのは、誰かが頑張ってハプニングが有れば別だが、夫々二人ずつ以上の子持ちになって、このご時勢、若いながら応分の責任を果たしていると言えるのかもしれない。
 何はともあれ、望まれて誕生した新しい命が、何事も無くすくすくと育っ事を願い、ファミリー皆んなが祝福している。

2011年11月18日金曜日

延暦寺から石山寺へ

 今週は、16日と今日、東京在住の共通の友人、M君とO君が別々に大阪にやって来た。私を含めて3人は、会社時代の入社同期で、二人は夫々郷里の中学時代の同窓会に出席する為の来阪だった。
 16日は、夕方から、やはり会社同期で大阪在住のM君の手配で梅田で、久し振りの酒を酌み交わした。普段は、真似事のような晩酌しかしない私としては、いささか飲みすぎて、お開きの時には良い気持ちになって二人と別れた。酒好きの二人の其の後は知らないが、其の晩新大阪のホテルで一泊したM君は、翌日9時半には滋賀県のバスの中で、お目当ての寺巡りに出かけていた。
 国内はもとより、海外にも旅慣れている彼らしく、フットワークが軽いのには感心させられる。
 そして、今日は朝9時半に到着するO君を迎えに京都駅に向かった。私は其の為、前もって前日から宇治市の実家に泊まりに行った。実家の母親は娘が来てくれる事がなにより楽しみなので、好都合だった。
 彼は、琵琶湖岸の旅館に三時に入るまでの間、比叡山の延暦寺の拝観を希望していたので、私が車で案内を買って出た。
 私も、延暦寺に行くのは、子供達と家族で訪れて以来随分久し振りになる。
昼からの雨の予報で、午前中早めに比叡山に登ろうと、北白川通りから山中越えで延暦寺を目指した。
 途中から、比叡山ドライブウエイに入るが、山の紅葉は控え目だったが、それでも所々、鮮やかな色に染まっていた。
 阿弥陀堂、東塔、大講堂、と巡り根本中堂、文殊楼を拝観して廻った。
何とか雨にも遭わず、時間が余ったので石山寺に回る事にして、湖西を瀬田の唐橋方向に戻った。
 この、紫式部ゆかりの寺の紅葉が、とても綺麗だった。寺の門前で昼食を取り、紫式部展の豊浄殿に上がっていく境内の紅葉は素晴らしく、二人で季節を充分楽しんだ。
 石山寺の拝観を終え、彼を3時少し前には同窓会のホテルに送り届けて、私の今日の役目を終えた。
 車中、お互いの近況を話し合いながら、旧交を温める楽しい一日だった。

2011年11月16日水曜日

コンパクトなCANON G12

   今、私はCanonのG12というコンパクトカメラを日常使っています。軽くて持ち運びが楽な事が一番ですが、撮れる写真も中々のものだと思っています。感度はASA100にあわして、フオワイトバランスも自動にしていて、気軽にスナップを撮る分には、それで充分な写真が取れているのです。時々、ファインダーを覗いてシャッターを切りたいと思うこともありますが、ちょっとその辺まで歩いて出かける時、重い一眼レフを担いで出るのが、ついつい億劫に成るのです。
 リタイヤ後に、家内とイタリアとパリのツアーに出かけたときは、ミノルタのDimage A1と言うこれもとても凝ったコンパクトカメラで、バッテリーパックをつけて持って行きました。ピント合わせは手動でロッコールのGT Lensと言う優秀なレンズが付けられていて、とても良い絵が撮れました。
 その後すぐ、このミノルタのカメラはCCDの不具合が出てリコールになり、会社に引き取られてしまいました。その為、私はその代わりにCanonの初心者向けの一眼レフを使っていましたが、去年コニカとミノルタが合併後、KONIKAMINORITA A2という後継機を出していた物を、ネットで格安に手に入れたのです。と言うのは、コニカミノルタは合併後にカメラ事業をSONYに売却してしまい、カメラ事業から撤退してしまいました。しかし、ミノルタのカメラとレンズには根強い人気が有り、中古カメラの市場で盛んに売買されていたのです。
 コニカのカメラについても、フイルムカメラですがKonica HEXER RFと言ってレンジファインダーのとてもかっこ良いカメラが出ていて、高くて断念しましたが、手に入れたくて真剣に悩んだ事を思い出します。
 今は、一部のマニヤ以外ほとんどがデジタルカメラを使うようになりましたが、過去のカメラにはとても色々な思い出があります。
 ヤシカやコンタックスという優秀なカメラを製造していたメーカーも事業の撤退で消えてしまいました。我が家にはCONTAX T2と言うフィルムカメラが、今もあります。
 キャノンやニコンと言った老舗ブランドは、今も健在ですが、それとて、カメラ専業で事業を構築していく事は難しく、今後の事は分りません。
 それと、最近、突然表面化したオリンパスの長年の損失隠しの問題は、其の事業にとってとても大きなダメージになるでしょう。オリンパスも高千穂製作所の名称でカメラ事業から身を起こした企業で、そのズイコーというレンズもとても定評がありましたし、フィルムカメラ時代のOLYMPUS PEN Fと言うコンパクトな一眼レフカメラは一世を風靡した事を記憶しています。
 このデジタルカメラ時代になって、誰でも何処でも気軽に綺麗な写真が残せる様に成ったと思いますが、日本の物造りの伝統を守り続けてもらいたいものだと思っています。