2011年7月29日金曜日

ぶっつけ本番のゴルフ

   子供達が帰ってしまった今日は、いつもの、月例の研修会ゴルフで、川西の山の原コースのラウンド予定が入っている。朝、6時には目が覚めて、自分でパンを焼いて、コヒーを入れていると、今日同伴のN君から電話が入って、少し早く出すぎて、近くまで来ているので迎えに行こうかと言ってきた。彼は大阪の南の松原から、阪神高速を飛ばしてやって来るのだが、やはり、自分で身支度をしてくるらしく、ジャケットを忘れたので、何でもいいから借りたいと言う。
 クラブに来場の時は上着を着用して欲しいというのが、ゴルフ場のマナーなのだが、盛夏のこの時期、そんな堅苦しい事を言うところも少なくなっている。
私は、迎えに寄ってくれるのは大歓迎で、家でコーヒーでも飲んで行こうと、家に来てもらって、ゴルフ場に向かった。
 練習グリーンで時間調整をしてスタートする頃には、夏の日差しが、暑くなるのを予感させたが、案の定、朝から蒸し暑い空気も手伝って汗が噴出してきた。
おまけに、OUTの一番からグリーンオーバーで奥のバンカーに捕まり、今度はバンカーの砂が硬くて、出るには出たのだがトップぎみにクラブが入って、もと来た方向にグリーンオーバーする始末。出だしからバタバタで、すっかいリズムを崩した。素人は、こうなると、大体収拾が付かなくなるもので、何とか立て直そうと、もがけばもがくほど悪いほうに転がってしまう。
 結局、OUTの最終までピリッとせず折り返した。午前中で、体は汗まみれに成り、熱中症を警戒して、スポーツドリンクを3本開けても、頭はスッキリしなかった。INに入ると、体が火照ってショットが繋がらない。せっかく、同伴者に置いて行かれていたドライバーショットの飛距離を少し縮めたが、セカンド以降が付いていけなくて、大変惨めな結果に終わった。52,53のトータル105点でスコアーは又、後戻りしてしまった。
 あれだけ、練習の事を反省していたのに、充分な体慣らしもせず、この暑さの中、ぶっつけ本番はやはり無理だった。送り迎えで楽をしただけが慰めのゴルフに終わってしまった。

2011年7月28日木曜日

思い出造り

 孫達のお泊りが終わって、今日、両親のところに送っていく。昨日は、午前中に本屋に行って、帰ってから、昼からはアーちゃん(奥さんのこと)のパン造りに参加。パン生地をゴロゴロ伸ばして、たこの形や、犬の顔等など。思い思いの形を造って焼き上がりを待った。上手にパンが焼き上がり、子供達は満足。
 夕方、食事の前に子供達を連れて、いつものコースを散歩に出たが、5時頃ではまだ暑かった。一回りして自宅に帰ると、下の男の子が、「お爺ちゃん、セミ取りに行こう」と誘われる。虫取りの網も無いし、取れるかな、と言いながら、もう一度公園まで引き返す。案の定、木に止まっている油ゼミは何匹も見つけるが、とても手の届く所にはいない。桜の木の根元を見ると、沢山の穴が開いている。これは、セミが這い出してきた穴だよ、と孫に教えて、一本、一本丹念に木を見ていくと、とうとう、地中から這い出した、羽化する前のセミを見つけた。孫に手に取って見せてから、元の木に戻してやったが、お爺ちゃんの面目躍如と成った。
 セミの抜け殻を土産に、孫との夕方の虫取りは終わったが、小1の夏の思い出になると良いなと思いながらの帰宅だった。

2011年7月26日火曜日

夏休みの孫達と

 昨日から、3泊4日で千里の孫達を預かっている。夏休中の予定に入っていて、普段静かな家の中が何か騒々しい。小3の娘は本棚から、妻が昔子供達に読んで聞かせた本を引っ張り出してきたり、小1は私の部屋から木工の時に出来た木屑を持ち出してきて、何かごそごそやっている。
 子供にとっては、その辺の何処でも、遊びのネタが転がっているようだ。
二人で、風呂に入って10時には寝息を立てていた。翌日に神戸市立須磨水族園に連れて行く約束になっていて、それで、おとなしく寝た。
 今朝も朝から青空が覗いていて、午前中から暑くなりそうな気配だった。とりあえず、10時前に神戸に向かって出発。暑い時なので、私はあまり気が進まないが、奥さんは娘に頼まれて張り切っている。小学生と言っても、最近の子供達は、普段のスケジュールが結構立て込んでいて、私達がゆっくり付き合って遊んでやる機会はそう多くない。
 下道と阪神高速の神戸線を走り、1時間30分近く掛かって須磨浦公園に着いた。ウイークデーと言う事もあって海水浴の砂浜は人出が少なく、随分久しぶりに、海水浴場の、波打ち際まで歩いてみた。砂浜の後ろの松林に駐車場があり、そこから須磨水族園は歩いて5分ほどの所に有る。
 会社勤め時は2度の神戸勤めを経験しているが、須磨水族園に入ったのは始めての経験になる。子供達は、幼稚園から一度来ているようだが、やはり相当喜んで、色々の魚の水槽を覗いて周った。特に目玉のイルカショーは迫力があって小3の孫娘に言わせると、以前よりパワーアップしていると言い、満足げだった。
 明後日まで、部屋は子供達に占領される事になる。
 

2011年7月24日日曜日

国の安請け合い

  何から何まで国で面倒見ますと言う、この人たちに何時までも国を任せていて大丈夫なのしょうか。一見、国民に優しい政治のように受け取られがちだが、それは、子供手当てにしても、高速道路無料化、農家の個別所得保障にしても、そのほとんどが結果的に、国民の目線を誤魔化す約束でしか無かった事が、後になって分ってきた。そして「あの時のマニュフェストは、考えが足らなかった。国民に率直に謝りたい」と今になって言われても、謝って済む問題なのだろうか。以前にも書いたが、源発事故についても「最後まで国が面倒見ます」と当初から言い続けている。語気を強めてはいるが、あまりにもひとごとの様に軽い言葉のよいうに思えてなら無い。後になって、「あの時はそう思っていたのですが」と言われてしまいそうで、到底鵜呑みに出来ない発言だ。
 簡単に、国が面倒を見ますと言うあの人たちは、勿論、自分達の懐で面倒見ますと言っている分けは無く、それは、全て国民一人一人に面倒を肩代わりしてもらうと言う事なのです。そのことは、必然的にその資金手当てには初めから、増税が念頭にあります。要するに、財政事情の悪い中、抜本的な予算の見直しで余剰資金を捻出していくと叫んでいたこの人たちは、ただひたすら、選挙に勝つ事だけが目的で、票を貰いやすい人達をターゲットにしたに過ぎ無かったのです。
 最近でも、予防ワクチンの摂取で注射器の使いまわしが原因とされているB型肝炎訴訟の和解について、国民受けとも取られる、とても寛容で気前の良い和解条件が言われています。不幸にも、B型肝炎に苦しまれている方々には同情しますが、45万人とも言われる感染者に対して、一人50万~3.600万が支払われると言う和解条件と言い、その為には一般国民に1兆円~3兆円の増税が必要になる金額だと言われています。皆さんは納得されるでしょうか。
 過去にも、チッソによる水俣病訴訟や、福岡のカネミ油症事件、薬害エイズ問題など、水銀汚染や薬害訴訟が記憶に有りますが、これらはいずれも企業による患者賠償で、それらの保障条件と比べて整合性の有る結論と言えるのだろうか。
 放射線のセシュームに汚染された牛肉が全国に流通して、既に消費されたという最近の事例を見ても、当初の国による気配りと指示が適切であれば、防げた可能性があります。この件についても、自分達の対応の遅れや、指示が徹底されなかった事で、汚染牛肉は全て国が買い取り、焼却処分すると言っています。国の失態が国民の税金で賄われる卑近な例です。
 いずれも、国で面倒見ますと安易に易々と発言していますが、財政事情の逼迫している我が国で、全ては国民の負担でまかなおうと言う考え方なのです。東日本大震災の復旧、復興には何十兆円もの経費が見込まれる状況下、なんとも安易で頼りない現在の与党や内閣で大丈夫なのでしょうか。
 政治をなりわいとしている、素人のような政治家達によって国民の生活が翻弄されています。今までの蓄えがあるからこそ、傍観している国民もこの先、そんなに余裕が有るのでしょうか。米国も中国始め新興国や欧州各国も、政治経済共に多くの問題が表面化してきており、日々の出来事から少し目を逸らしているだけで、世の中の動きが目まぐるしく感じるのは私だけなのでしょうか。
 

2011年7月21日木曜日

40年来の別れ

 サラリーマン生活を始めた20代からの友人が、昨日夕方逝った。家族ぐるみで、40年来の付き合いだった。10年近くの闘病に、とうとう力尽きた。
互いに、厳しい仕事を通じて付き合いを深めて今に至った。180センチを越える身長、中学時代からの野球選手で、ゴルフをやらしても強烈なドライバーを放った。しかも、気は優しくて力持ちを地で行くやつで、周りからも頼りにされる人柄でもあった。彼の事を悪く言うやつなんかいなかったし、私の家内など、私に比べてあの人は優しい、と言うのが口癖のようなものだった。
 彼の奥さんと家内は、会社入社の同窓同期で、そんな関係からも、家族ぐるみの付き合いで今日まで来た。まさかこんなに早く彼がこの世を去るとは思いもよらなかったが、現実の日がやって来てしまった。
 酒の弱い私が晩酌をするようになったのも彼ら夫婦から送られた、伏見の清酒がきっかけになった。夫婦で酒を楽しむ彼が、最近は飲めなくなっていたらしい。彼にしてみれば、最大の楽しみを病によって奪われていたのだ。
先日私は、見舞いに行ったベッドの上で、彼の点滴で内出血だらけの腕を掴んで、「お互いに遅かれ早かれと思うよ」と胸の中で言った。
 明日は、これからは「好きな酒を心配せずに飲めるよ」と言ってやりたい。
始めは嫌がったらしいが、心配していた下の娘の結婚相手にも会うことが出来たらしく、気持ちも整理が付いていたのだろう。
 明日、明後日、同期のリーダー格二人と彼の見送りに行く事にしている。
たぶん、多くの友人達が彼の早い逝去を惜しんで、別れに来てくれるだろう。

2011年7月20日水曜日

台風一過の誘い

  今回の台風は、今までめったに見たことの無いコースを通った。今までなら、大体九州の北側をかすめて日本海に出て、山陰沿いに進んで、上陸しても北陸を横断して太平洋上に熱帯低気圧になって消えて行く、と言うのが、ここの所のお決まりのコースだった様に思う。しかも、台風一過で、後は青空が広がった。所が今回は、四国の足摺岬と室戸岬をかすめて、徳島にちょっと寄り道し、紀伊水道を覗いて熊野灘に向う、変なコースを通った。しかも、超スローの動きだ。おかげで、練習不測で観念していた19日のゴルフコンペも、中止に成るし、2日間も雨で家に閉じこもる事に成ってしまった。動きが遅いだけ雨雲を引き連れて、通過した後もすっきりしない天気に成っている。
 台風が通過したとたんに、コンペを手配していたU君から電話が入った。割引券が残っているので、21日に予約が取れたら行きませんか、と言うゴルフのお誘いだ。
自転車で転んで打ち身をしていたN君も一緒だと言う。梅雨明けに猛暑が来てこの暑さではゴルフもたまらないな、と思っていたが、台風で暑さが和らぎ、意外とラウンドしやすいかも、とOKの返事を出した。しかし、今日もレコードを聞いていてゴルフのクラブは握っていない。
 大体、なでしこのアメリカ戦で寝不足に成り、台風で家の中で、ごろごろしていたので、ゴルフの準備など全く出来ていない。それでなくても、近頃、暑いといっては練習を躊躇し、雨だといっては家に閉じこもりがちで、意識的にゴルフの練習を敬遠している。「スポーツ事は練習に比例する」お決まりの文句からすると、明日はだらけている、体慣らしのゴルフラウンドと割り切ろう。

2011年7月19日火曜日

暫定内閣

 暫定という言葉を良く聞く。ボクシングで言えば暫定チャンピオンとか、最近であれば、食品に含まれる放射能の政府暫定基準値、といった具合だ。この暫定という言葉は「正式ではなく仮に」という意味で使われる言葉だと思う。
 今、放射線のセシュームに汚染された牛肉が、実は、全国の流通網で出回り、既にその大半が消費された疑いが強くなりました。3月11日の東日本大震災によって引き起こされた、福島第一原子力発電所のベントと水素爆発によって、日本の大気中に飛散した放射性物質のおおよその量は既に推定されていると思うのですが、私達がそれを正確に認識するほどの情報を、何処からも受け取っていません。マスコミを含めた報道機関が、細切れで雑多な情報は色々出してくるものの、いずれも日々のトピックスとしての報道姿勢に終始し、翌日にはもう他の違った、如何でもいいようなニュースに移っています。
 しかも、今の政府が国民に向かって、真実の情報を開示する事に躊躇したとすれば、益々、私達国民は本当の事を知る事が難しくなります。そんな事を言うのなら、自分で調べれば良い、と言うかもしれませんが、一般の生活者でそこまで出来る人はとても少ないのが、現状ではないでしょうか。
 そこで「暫定」なのですが、聞くところによると、ソ連のチェルノブイリ原発事故の折に定められた輸入食品の放射能基準が、今迄、正式な基準として改定される事無く続いているというのです。これを聞いて、何と歴代の内閣や霞ヶ関の省庁は怠慢な国家運営を続けてきたことかと、改めて驚かされます。
 しかも、現内閣は、原発事故と言う未曾有の重大事故に、驚きうろたえて、様々な危機対応に於ける適切な判断を失念した節があります。
 第一に、国民に真実を報道することによる国民の動揺を過度に恐れたのか、小さな頭で、当初情報開示事態にブレーキを掛けたと思われます。その事は、後から判明してくる様々な事実によって明らかになってくるのです。
 放射性物質に汚染された稲わらが、福島げんぱつの事故現場から遠く離れた地点で刈り取られ、肉牛農家に出回っていた事実は、事故後のそれら農家に対する緊急できめ細かな情報伝達がなされていれば、防げた可能性が大きいと思われます。この汚染牛肉が全国に出回り、一般の人々の消費に当てられたという事は、現在の政府や関係省庁の危機に際した対応能力が、決定的に不足していると思わざるおえません。しかも、一般の人が通常口にする量では、特段に健康に影響する事は無い、と以前どこかで耳にした理屈が述べられているのです。しかし、その事を我々は検証する術も持ち合わせていません。
 食品に含まれる放射能物質の暫定基準については、何時まで暫定なのかと、問われても致し方ない事実だと思うのです。ここもとの政治の現状を見ていて思うのですが、日本では何時まで暫定内閣が続くのでしょうか。

2011年7月18日月曜日

エネルギーの議論

 定期点検中の各地の原子力発電所の再稼動問題について、首相と所管大臣の意思疎通が図られていないと言う事で、各方面に大きな混乱が生じた。
経産大臣が地元に再稼動を要請したその後から、首相が更なる耐性テストを実施する意向を示すなど、地元も経産大臣も梯子を外されて、面子丸つぶれの状態の様だ。さらに、首相は追い討ちを掛けて、将来的な脱原発も打ち出して見せた。       そもそも、首相は与党の中からも、賛成に回る可能性が高かった、衆議院の自身に対する問責決議案が通りそうになって、与党の集まりで退陣を表明した。ところが、そのことで、与党内がまとまり問責決議案が与党の多数決で否決されると、今度は、退陣時期を先延ばしするような行動と言動を、次々に打ち出してきている。 首相の素性を知る者に言わせると、彼は、現在、昔の社会民主連合当時の権力闘争意識が蘇っているのでは、と感想を述べる者もいる。
 何しろ、与党内で、首相に対する不信感が充満し、自身の内閣や執行部から孤立して、ほとんど政策の論議の無いままに、思いつく事柄を口にする様なのだ。
 全国の定期点検終了後の原発再稼動問題にしても、将来的な脱原発と言うこれまでの政策から大きく舵を切る政策提案にしても、これらは、国の形を決めるほどの重大な問題であり、当然、より広範な国民的議論を必要とする問題では無いだろうか。それは、社会福祉や、国の財政にも及ぶ重要問題であると思うのです。
 今日、新たな原発をつくり、国のエネルギーを全面的に原発に依存して行こうと言う考えは、さすがに下火に成っている。しかし、12.700万人がこの日本列島で今までのような生活レベルを維持し、大小の製造業が、国内での生産活動を継続していく上で必要になる電機エネルギーは、現実問題として、一時的に10%~15%の節電では賄う事のできない大きさが、必要になると言うのです。
 企業が自前で持つ、自家発電や、水力、火力、風力、太陽光などの自然エネルギーを組み合わせても、原子力エネルギーを全廃するには、相当の技術開発を伴う10年単位の年月が必要になるというのが定説です。
 さらに、地球レベルで考えると、二酸化炭素を減らす世界的な取り組みの必要性から、現在も中心的な役割を果たしている化石燃料に依存し続ける事の問題点が指摘されているのです。
 さらに、日本のエネルギー政策を難しくしているのは、今迄これを電力業界と二人三脚で推進してきた所管省庁や御用学者も含め、既得権益に寄り添って来た国家権力の構図があると思うのです。そこに、やらせメールで分るように、電力業界の古い体質が表面化しました。
 国として必要なエネルギー問題の正しい評価の議論の他に、この様な、国としてはなはだ好ましくない構図が同居している為に、電力事業の発、送電分離の議論も一連の既得権益の構図の中に飲み込まれてしまい、本当に、何が正しくて、何が問題なのかの見極めが、非常に難しくなっていると思うのです。
 国のエネルギーの将来像を誤ることは、国民の富と生活にとって、致命的な問題になりかねません。今後、この事を切っ掛けとして、確りした多角的な議論を望みたいと思います。

2011年7月17日日曜日

居ながらの祭り見物

 今日の午前中、クーラーの掛かった実家の居間で、ゆっくりと祇園祭りの山鉾巡行を見物した。京都のKBS放送では、32基の山鉾の巡行を実況中継していたのだ。それと、私は前日の夜、NHKで放送された祇園祭りの宵山を、取れるだけ写真に収めた。如何いう事かと言うと、テレビカメラの映像をテレビの画面から直接カメラで撮ってみた。上手くいくか自信は無かったが、まあまあの写真を撮る事に成功した。
 始めは、今年こそ京都に行って、生で山鉾の巡行と祇園祭の雰囲気を満喫しようと思っていたが、連日の猛暑で断念した。元々、実家の母親を訪ねる予定をしていたので、お婆さんにアンディーを預けて京都の市内に向かう計画を立てていたが、駐車場の心配や、どうせ付いてくる奥さんのことを考えると、炎天下の人ごみを連れまわすのは無理だと思って取りやめた。しかし、それが正解だった。京都の今日の暑さは、尋常ではなかった。ニュースでも見物に押しかけた人たちの中で、熱中症で運ばれる人が何人も出たようだ。
 それと、昨晩の1時間半のNHKの宵山中継は、為になった。主だった鉾や山の案内で普段知らない事が沢山聞けたし、テレビで中継された山や鉾を歩いて周ることは、到底無理だ。テレビ中継で祇園祭の山や鉾を出す町内の賑わいや、個々の取り組みが、家に居ながらにして、手に取るように伝わってきた。
 そう言う、予備知識の上に、一つずつの山鉾が、くじ改めの地点を通過していく様子を、家の中で、横になりながら見物できたのだから、言う事無しの祭り見物になったのだ。
 それでも、今回の祇園祭まで、それほどお祭りの事を楽しみにしたり、出かけて見ようなどとは思わなかったので、NHKので宵山の中継放送を見て初めて知る事が多かったのも事実だった。長い間、京都に居て、改めて、知らない事のほうが多いのに気付かされた祇園祭だった。
 

2011年7月16日土曜日

食後の散歩

 食後の散歩を始めた。私も奥さんも宵っ張りで夜12時頃まで起きているので、比較的朝が遅い。奥さんが朝の身支度を終えると、9時過ぎになってしまい、外の気温を考えると、とても歩く気にならない。
 食後と言っても、夕食を早めにとると外はまだ明るい。いつもの公園を周って、市内が見渡せる場所に出ると、神戸方面が、日が沈んだ後に残る夕焼けで綺麗なシルエットになっている。そこから、こんどは東のほうに歩いて行くと、今度は満月に近い月がでていた。東側は阪急の川西能勢口駅がある市街が望めて、今年も、たぶん行なわれると思うのだが、猪名川の花火大会の時、大勢の人が見物に集まるスポットになっている。
 朝の散歩では、ここから、住宅街を抜けて坂道を下まで降りて、表のバス道を上って帰るコースを取っているが、夕方はここから自宅のほうへ引き返す。
 散歩の嫌いなアンディーは、その辺を少し歩くと、後は背中をこちらに向けて、抱っこの姿勢をとる。ただ、前のリズもそうだったが、10歳を過ぎた頃から足元が少しおかしくなって、だんだんにスムーズな歩きが出来なくなった。リズはそれでも
頑張り屋で、最後まで自分で歩こうとしたが、人も犬もインコなどの小鳥も見てきて、最後は足が悪くなって命を終えるように思った。
 夫婦で、歩けるうちにストレッチを兼ねて、ウォーキングを続けなければ、、、

2011年7月15日金曜日

五条宮大神 少彦名命

 朝、8時に自宅を出て、家の奥さんの掛かり付けの病院に向かった。朝から青空で気温が上昇しそうだ。アンディー用にと言うわけではないが、家内が保冷ジェルを挿入して首に巻くものを用意してくれたが、私はそれをアンディーに譲った。いっも、45分ほどで着くNTT西日本大阪病院までの時間が、今日は60分掛かって、9時の予約に滑り込んだ。
 毎月、月中の週末が病院の定期の受診日になっていて、ここに通いだしてからでも、10年を越えている。私がリタイヤしてからは、私とアンディーが、奥さんを送っていく事になっていて、大体2時間ほどは待たされるので、その間、夕陽丘界隈を散歩する事にしている。勝山3丁目には、しゃれたオープンカフェがあり、時々は、そこで、380円のホットドッグとコーヒーをよばれる事にしている。
 今日も、日陰を見つけながら、天王寺の方角に歩き出して、気がつくと歩道沿いにお祭りの赤い幟が幾つも付けられていて、幟の菊のご紋は分るがのだが字が読めない。天王寺界隈は、歴史の有る地域で四天王寺さんを始め神社仏閣の多い地域でもある。暫く行くと、家の前に祭りの提灯を出して幟を付けたお宅を見つけた。その家の横の塀には、お祭りの張り紙があり、五条宮、夏まつりと書いてあった。
 病院から、あまり遠く離れると、帰りが大変なので、五条宮を探す事はできなかったが、家に帰ってから調べてみると、四天王寺創建の際に、医道の祖神五条大神、少彦名命(すくなひこのみこと)を祀ったのが始まりで、673年(白鳳2年)に敏達天皇が祭祀し敏達天皇社と改め、病気平癒の神、鬼門除の神、火難除の神、橘氏はじめ春日、大原、清原氏など数百の氏族の祖神として、また付近一帯の産土神として広く信仰を集めているとのことであった。また、五条の名は難波京の五条筋にあたることから、条坊制を今日に伝える唯一の証拠となっているとも記されていた。
 何しろ、歩かないアンディー連れなので、ほとんど、3キロを抱えて歩いているので、ソコソコの運動になる。次の機会には、地図を調べておいて五条宮を訪ねてみようと思った。

2011年7月13日水曜日

機能不全の内閣

  放射線セシュームに汚染された肉牛が、12都道府県の流通網に出回っていたことが分った。こんな事が4ヶ月もたった今、判明するとは全く驚きだ。
私のような現役を外れ情報も無い高齢者でも、3月11日以来の原発事故での政府の情報発信は、可笑しいと感じた。原発事故から放出された放射線の量が、けたたましい量であったにも関わらず、政府は正確な情報を国民に、「意図的」に開示しなかった。水素爆発以降、地域に降り注ぐ放射線は、地域とそこに住む人々を飲み込んでいた事になる。当時から政府の情報発信の前面に立っていた官房長官が,今も、臆面も無く地域で出荷する肉牛の全頭検査云々、と記者会見の場に出ているが、そのこと事態、それを聞いている人達は可笑しいと思わないのだろうか。今回の汚染牛肉の出荷は、確り機能している政府であれば、確実に防げた事で、それを出荷した農家には責任は無い。
 また、この時点で政府は放射性物質の影響が懸念される地域について、機械的に同心円を描き20キロ、30キロで計画的とか自主避難とか避難準備区域等と、中途半端な指示を繰りかし、しかも「人々の健康に直ちに影響するものではない」と無責任極まりない情報発信を繰り返して来た。
 そして、なし崩し的に強制避難を打ち出して来ると言う不手際を繰り広げて来たのです。家畜の餌になった稲わらが、大幅に基準を超える放射線の汚染を受けていたと言う事実は、それ以前に、地域住民は相当量の放射能被爆を受けていたと考えるのが妥当では無いでしょうか。今になって福島県民の体内被曝検査を始めると言っているようですが、全てが、後手後手に回っており、こうした事実に付いて周りから大きな声が上がらない事が、全く不思議でなりません。
 この事は国民の信頼を大きく損う不手際です。天災後の人災と言っても過言で無い不手際は、国民の生命と財産に致命的なダメージを与えかねません。
 今の民主党政権について、首相が辞任する、しないといったレベルの問題では済みません。天災以降の国の責任については、党全体で、確実に責任を取ってもらうスキームが必要になってきます。この事だけでも、内閣総辞職に値する不手際です。引き続き政権を担う資格があるとは到底思われないのですが、如何でしょうか。
 報道機関も、政局がらみの動きばかりを追うのでは無く、もっと事の本質をとらえた、現政府の機能不全の実態を追求する報道に、焦点を当ててもらいたいものです。

2011年7月12日火曜日

セミの季節

 昨日の晩ご飯の後、アンディーを連れてマンションの外に夕涼みに出た。家の中より風があって少し涼しい。家の周りを一周してエントランスに戻ると、入り口に小さなセミが裏返しになっているのを見つけた。指でつまむとまだ生きていて足を動かす。小さなニイニイゼミで、えらく早く出てきて日中のあまりの暑さにバテたのかと思って、家に持って入り水をかけて勝手口から外に投げてやった。
 それは、その時で忘れていたが、今朝、中村弘子のショパン名曲集のレコードを掛けながら、ネットでニュースを見ていると、開け放した窓の外がやけに騒々しい。いつもなら、すずめの鳴き声だが、今日はどうもセミの鳴き声のようだ。梅雨が明けたとたんにセミが鳴き出した。
 そう言えば、と昨日のニイニイゼミの事を思い出した。もうセミの季節になったのかと、あらためて夏を実感する。
 しかし、5月に川西の山の原コースに行った折、何番だったか、真夏を思わせるセミの鳴き声を聞いた。不思議に思って、キャディーさんに、あれはセミかな、と尋ねると、そうなんです、という答えが返ってきた。春ゼミと言ってその時期に出てきて鳴くセミもいるらしく驚いた。
 ついでに、セミの事を検索してみると、その種類、なんと3.000種類も有るという。テイオウセミと言って130mmの巨大なものから20mmの小さなものまであるらしい。現役の頃の夏、朝の通勤で地下鉄の出口の階段を上がると、けたたましくアブラゼミが鳴いていたのを思い出した。また、息子が、まだ小学生の低学年だったろうか、夏休みに会社のキャンプで、四国の伯方島と言う所に連れて行った時の事、子供の背丈で届く所に、無数のクマゼミがいて、息子が大喜びしたのを記憶している。
 セミの命は1~2週間と短命と思われているが、幼虫で地中に3~7年生きていると言うから、こうした虫の中でも長生きのほうだと書いてあった。
 いずれにしても、セミの鳴き声は、朝夕騒々しい真夏の風物詩でもある。

2011年7月11日月曜日

京都祇園祭り

 昨日、京都では神輿洗いと言う儀式が行なわれました。これは、飾りの無い神輿三基を八坂神社の舞殿に出し、そのうち一基(中御座)の前後に火を灯した松明を持って、四条大橋まで引き出し、前もって汲み上げられ、清められたた鴨川の水に榊を浸して、神輿を清める儀式の事です。これが祇園祭りが始まる儀式の一つになっています。
 私は、学生時代の四年間と社会人になってからの8年半、併せて12年半も京都にいました。それで、どういう分けか、私の中の梅雨明けと夏の到来は、祇園祭が基準に成っていたようです。ただ、学生時代は、この頃、学校が夏季休暇に入っており、ほとんど京都には居なかったので、私の京都での感覚は、会社の勤めが京都になり、そこで家庭を持った時からの基準と言ってもいいかも知れません。
 昨日は、その他、鉾建てと言って 各鉾町で山鉾の組み立てが始まる日でも有りました。当時、私の勤める会社の前には、ちょうど長刀鉾が組み立てられましたが、この長刀鉾は32基の山鉾の中でも一際目立つ鉾なのです。
 京都の町もこの山鉾の組み立てを皮切りに、祇園祭の雰囲気が高まって来ます。14日~16日が宵山になり、夕方から各鉾の上で祇園囃子が行なわれますと、祭りのムードが盛り上がり、翌日の山鉾巡行で、それが最高潮に達するのです。
 でも、祇園祭はそれで終わりでは有りません。その日の午後、八坂神社で神幸祭と言って、神輿渡御に先立って本殿で祭典が行なわれ、夕方には、各鉾町にこの神輿が繰り出すのです。
 この後、花傘巡行や環幸祭などの日をへて、一ヶ月に及ぶ祇園祭が締め括られます。クライマックスの山鉾巡行が終わると、京都の街中は、水を打ったように静かになりますが、京都に暮らすと、今言ったような、色々な行事を見る事が出来るのです。
 昭和50年の7月、ちょうど山鉾巡行の日、四条どうりの沿道は人の波で埋まっていました。
私は、その人ごみの後ろで、山鉾の巡行を眺めていると、そこに山鉾から投げられたちまきが飛んできました。私は咄嗟に手を伸ばすと、その手の平にすっぽり、ちまきが収まったのです。普通、なかなか山鉾から撒かれるちまきを掴むことは出来ません。その日、会社に帰ると、それまでの京都生活に終わりを告げる、会社の転勤辞令が発令されていました。それが、京都で見た私の最後の山鉾巡行だったのです。

2011年7月10日日曜日

真夏の日差し

 朝から真夏の日差しが窓越しの桜の古木にふりそそぐ。今日も、空は快晴だ。比較的早く目が覚めたが、体は朝から動きが鈍い。ここの所、朝の散歩をサボって、夕食後に近くを歩こう、と言うことになっている。内の奥さんは、SLEと言う病気と30年近く付き合って来ているが、強い日差しは避けなければならない。
 それで、私もそれに便乗して朝のウォーキングを控えているが、私は、ただ暑いのでサボっているに過ぎない。今朝も、ヨーヨーマのCDアルバムをかけた後、パリ管弦楽団でシャルル・ミュンシュ指揮のブラームス交響曲第一番ハ短調を聞きながら、昨日飛ばしたブログを書いている。外は、相当の日差しで、たぶん気温は30度近くあるのだろうと思うが、我が家は市内から140~150mのの高さがあるので、窓を開け放していると、高原の風が感じられて、なんとも気持ちが良い。街中と比べると、1~2度は気温が低く、体感はそれ以上ではないだろうか。
 昼食を早めに済ませたら、娘の孫達を迎えに言って子供達が出る暗唱大会の会場へ行く事になっている。大体、子供達も日曜日の休みといっても大変だ。やれ、公文だ、プール教室だ、暗唱大会だなどと結構スケジュールが詰まっていて、今の子供は、それを当たり前のようにこなしている。自分の子供の頃と比べると、大変な違いだ。私達の子供の頃を考えると、母親が、子供一人一人にそんなにかまってくれなかったし、それでとても自由に友達と遊べた。
 この時期はというと、休みの日は、必ず近くの山に入って虫や昆虫を探したり、小さな川や水田に網を入れて、どじょうやかえるを捕まえたりの、たわいない遊びをしていたものだ。それで、顔は真っ黒けに日焼けして、夜は疲れて良く寝た。
 時代と、育つ環境で人は変わると言うが、彼らはどんな風に育って、どんな未来を造ってくれるのだろうか。

 

2011年7月8日金曜日

やらせメール

  国が主催して行なう原発説明会に、電力会社側の幹部が、裏に回って、原発賛成を意味するメールを広範に出させていた問題は、いかに、企業の判断能力が幼稚で自己本位で浅薄なものかを裏付けているように思います。
 政府の大臣が、この行為に対して言語道断と怒って見せましたが、僭越ながら、企業関係者も政府の人間もその思考レベルでは、たいして変わらないのではないでしょうか。メディアが取り上げ、社会問題化して初めて気がつくのです。
 これは、日本の経済を主導する経済団体のリーダーにも言える事ではないかと思います。本当に正しい事を正しいと言い、可笑しいことは可笑しいと言える人が何人いるのでしょうか。大体、そう言える人は、社会や企業で主要なリーダーとは認められない傾向が有ります。そうすると、何かが起こってその当事者がクローズアップされて初めて、なんでこんな浅薄な、人柄も評価できない人が組織の上に立っているのだろう、と言う感想に成るものなのです。

 私も含めて、戦後の社会を主導してきた年代にも責任があると思っています。
戦前、戦後を通じて日本の復興に携わってこられた先輩達から、日本社会の上昇期を引き継いできた人間は、ひょっとして、経済優先で人としての基本的なモラルを置き忘れて来てきたのかも知れません。
 今でも、一人一人の若い人と交わると、その人たちは、大変真面目でお行儀が良く、自分の生活を大切にする善良な人たちが多いのに気付きます。
そうした、善良な人たちで構成する日本社会に何が不足しているのでしょうか。
 冒頭に申し上げた、やらせメールのような問題が、決して、してはならない行為だと、咄嗟に判断できない思考力の欠如が、問題ではないかと思うのです。
 如何してあんな真面目な人が、と良く言われますが、そこには、重大な問題が潜んでいるように思えてなりません。
 現在、社会で定着しているライフスタイルは、まづ自分ありきではないでしょうか。その為、当然、自分や自分が所属する小さな組織の利益が優先され、そのための行為は、反社会的に成るかも知れないと思われても、自分の中で許される傾向にあります。それは、意図的では無いかも知れません。無意識に自己中心の志向が定着し、社会全体や、本来、人として当然の判断能力が忘れられた結果だと思うのです。
 近畿地方も、統計以来、最速で梅雨明け宣言が出ました。明日からは本格的な暑い夏の到来です。

2011年7月7日木曜日

家の近くの古墳

 私のいつもの散歩ルートに敷地が広く立派な幼稚園があり、その正門の脇に小さな古墳がある。初めのうち、珍しくて近くから覗いたりしていたが、入り口は中に入れないように鉄格子があって、薄暗く良く見ることは出来ない。
 私は、歴史には興味があるが、古代史にはもう一つ興味を持っていなかった。
私には古代史に詳しい子供の時からの友人がいて、彼が定期的に、その時代の本を紹介したり、自分なりの考察をブログで述べていて、アーそうなのか、と勉強させられる。そう言うわけで、散歩ルートの小さな古墳をもう一度覗いてみた。
 宝塚市の史跡として、その入り口には解説のプレートもあって、この古墳の解説が書かれている。
 この古墳は切畑古墳群の中の最も東に位置する一つらしく、長尾山丘陵の南斜面の標高120mの地点にあり、切畑群集墳1号墳とある。径が14m、高さ3.5mの円墳で、内部に両袖式の横穴式石室があると記されていた。古墳時代後期の6世紀半ばのものと言うことだ。この宝塚の丘陵地帯には二群五基の古墳が存在するらしく、わたしの住んでいる地域のすぐ裏に石切山と言う地名の山があるが、ここから容易に石材が切り出されたのだろうと解説されていた。
 Wikipediaを検索してみると3世紀から7世紀の間の古墳時代に倭国からヤマト政権が確立して、この時代に日本国と言う名称が使われたと有る。この時代、今の奈良地域から全国に大型の前方後円墳が造られ古墳時代の後期は飛鳥時代に繋がると記されていた。この時代の前から、倭国は朝鮮の百済や新羅を従属させ統治した時期もあったとも記されていて興味深かった。
 子供の頃の教科書に載っていたのかどうかは覚えていないが、中学、高校レベルでは、ごく薄っぺらい記述で、深く学ぶ事も無かったのではないだろうか。
 それでも、全国には熱心な考古学フアンが沢山居られて、各地の発掘現場などに大勢つめかけている。去年の秋、ひょんなことで奈良公園から南に向かって車を走らせたが、明日香村に有る飛鳥資料館等に立ち寄って、古代の奈良の雰囲気を味わったのを思い出した。