2011年3月31日木曜日

869年貞観大地震

 今度の東北関東大震災はその規模と被害の大きさから、私自身、多くの事を考えさせられた。
平成7年1月17日未明、大阪千里の15階建てのマンションの、14階に住んでいた私は、突然の大きな地震の揺れに、咄嗟に、大丈夫、大丈夫と大声を出しながら、一瞬本当に大丈夫かという思いがよぎったのを覚えている。命の危険を感じた初めての経験だった。
 その時から16年、今は海抜150メートルに位置する4階建てのマンションの一階に移り住んでいるが、あの時の記憶は時間とともに薄れていた。当時、神戸市内やその周辺部の人口密集地域で6400名を越える人達が命を落とした大惨事であった。その記憶が薄れそうになったときに、今回の大震災が起こった。太平洋側の東南海沖大地震に対する警戒が叫ばれていたが、今回は東北関東にかけての広い地域の地盤が動いたとの事だ。しかし、今回の地震の情報を読んでいる内に、今から1150年も昔に、陸奥三陸沖で貞観大地震(869年)と言う大きな地震が記録されていた事を知った。日本三代実録という、天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月の30年間の出来事を記録した歴史書の記述にその地震のことが記されているとの事だ。最近の研究で、その1、000年以上も昔の大地震の記述から、その地震は、少なくともマグニチュード8.3以上とされ、大津波に襲われた様の記述が記されていると言う。その事から、沿岸の津波対策の大幅変更を検討する提案もされていたとの事であるが、1000年以上も前の大災害が、今に生かされる事は無かったようだ。大宰府の地にながされた、菅原道真もその編纂に携わったという歴史書が、1000年以上も前に書かれていたという事も初めて知った。現役時代は、数字の変動を追い掛けていた経験から、社会科学での数字の変動に無意識で規則性を認めてきたが、リタイヤした今、その規則性の認識は誤りで、変動する社会は、絶えず変化していて、二度と同じ場面に遭遇する事は無いのかも知れ無い、という思いがしていた。それは自分の生きている間は、という注釈付きではあったが。しかし、今回の大震災で、大自然にはやはり、時間を越えて規則性が証明されたような気がしたのだ。
 それと、今回の大災害のもう一つの問題は、福島第一原子力発電所の津波による事故の発生だ。私も政府や東電、原子力保安院の記者会見について、ここで書いたが、知識の無い私達に、正確で分りやすい情報開示がなされなければ、あらぬ不安を掻き立てる事となって、冷静な対応を邪魔する事になると感じたからです。自分なりに少しでも事故の事、それによってもたらされるリスクについて知りたいと思った。放射線、放射能、放射性物質について夫々の意味を認識する事からが始まりだった。いくつかの中で、私の理解に参考になったレポートをここに、乗せておきます。http://sites.google.com/site/reportfujibayashi/元東芝原子炉設計部長の藤林徹さんのレポートです。無断でここに紹介させて頂く事をお許しいただきたいと思う。
 枝野官房長官の記者会見の言い回しも、少し変化してきました。徐々に状況の厳しさがにじんできております。事故を危惧する世界の専門機関から多くの支援の手も差し伸べられてきている。状況の開示が真実に近づいたからと言って、事態の深刻さは変わりません。一日も早い事故の収束が待たれます。
 

2011年3月30日水曜日

お見送りの日

 一昨日、かねてから病気療養を続けておられた方の訃報が入った。娘の嫁ぎ先の祖父に当たる。戦後、大阪で建設会社を起こされ、それなりの成功を収められた方で、最近は息子達に経営を委ねられていた。数えの89歳で、懸命に大正、昭和、平成を生き抜かれた方のお見送りである。とは言え、立派に,後を引き継ぐ子供達や可愛い孫やひ孫に囲まれての最後は、思い残す事のない人生の終わり方ではなかったかと推察した。季節は春で、まさに、ぎっしり蕾をつけた桜の開花を前にした、人生の終わりだった。
 お見送りの時、最後のお顔を拝見して、しみじみ幸せな最後だったと感じた。お見送りした私も高齢者の仲間入りをしているが、まだ、多くの戦前戦後を生き抜かれた方々がご存命だ。しかし私達昭和生まれに、それだけの生命力があるだろうか。長く生命を維持されて、多くの物を後進に残された方々のことを思うと、お一人お一人、ドラマがあって素晴らしいストーリーが描ける。
 今年になって、直近の東北地方の大震災では、多くの痛ましい犠牲者が出た。被災地で、不本意な人生の終わりに見舞われた方々の事が頭をよぎった。、多くの身内や知人に見守られての別れが、不謹慎ながら幸せな風景に思えた一日だった。

2011年3月29日火曜日

リズとアンディー

 我が家にはこの3月24日、10歳を迎えたヨークシャーテリアがいるが、10年前は、その時7歳で同じくヨークシャーテリアのリズという勝気な雌犬がいた。このリズという雌犬は、かねて、病で体の弱い妻が抱いてでも散歩出来るくらいの小型のペットをと思っていた私が、ある日の日曜日、ふらっと出かけたペットショップのゲージの中で、元気に遊んでいる可愛い子犬を見つけて、妻に相談なしに家に連れて帰った犬だったのです。1994年の3月の事でした。
 血統書は両親ともチャンピオン犬の血筋を受け継いでいるとの説明を受け、生後二ヶ月で750グラム程しかなかったこの子犬が、連れて帰って3、4日すると急に元気が無くなって、今にも死にそうになったのです。すぐ動物病院に連れて行き、連日点滴治療に通って、何とか一命を取り留めた犬でした。その後は、順調に育って、家族の一員になったリズは妻と言うよりも、すっかり私になついて、近くに出かける時はいつも私の傍にいました。
 後で獣医に、小型犬でそんな過激な運動をすることは無いと言われましたが、休みの日は私と住まいの近くをいつも走っていました。成犬になったリズは2.3キロ、血統書通りの綺麗な体形に成長して、スチールブルーとゴールデンタンの微妙に変化する毛並みがとても美しい、ヨークシャーテリアでした。
 その後、翌年に阪神大震災が起こり、私達と娘はリズを連れて豊中市から、今の宝塚に引っ越したのです。リズが我が家に来て、随分たってから、リズの血統書が届いていました。そこには、出生地は兵庫県川西市となっており、ブリーダーの氏名も書かれていました。私がいま住んでいる宝塚の花屋敷は川西市と境を接していて、バス道をJRの関西線が通る176号線まで下りると、そこは川西市で、5分と掛からない所なのです。今の所に来てから随分後に分ったのですが、偶然にもその176号線の道路に出たところに、ケンネルの看板を掲げたペットの美容室があって、そこがリズの生まれた所だったのです。

 宝塚に来て、リズが7歳になっていた時に、外出しようとする度に後追いするリズのことを考えて、妻の母の日のプレゼントを名目にして、今いるアンディーを迎えることにしたのです。2001年5月の事でした。
 2001年と2002年に乳房の切除手術を受けたリズは、5年前の外出先で心不全を起こして、妻の腕の中で亡くなりました。12歳半の事でした。少し足が不自由になっていましたが、食欲もあり、まだまだ元気でと思っていた私達でしたが、それは突然の旅立ちでした。
 リズの後について、リズの機嫌を損わないように振舞っていたアンディーも、今では、すっかり箱入り息子に納まって、家の中でも私の後を付いて歩いています。
犬でも、生まれた時から個性があって、夫々違った行動をとるものなのです。生まれて直ぐ母親から離されて、生後に親から教えられる事は何も無いと思われがちですが、そこにはちゃんと親の遺伝子を受け継いでいて、育つ過程で個性を発揮するものなのです。
 今も、ブログを書いている私の傍らでは、アンディーがいびきをかいて寝ています。私達の毎日は二人と一匹という感覚は無く、まさに三人家族として過ごしているのです。

2011年3月28日月曜日

福島第一原子力発電所のこと(3)

 岩手県奥州市地域選出の小沢一郎元民主党代表が、大震災後初めて地元入りしたとのニュースを聞いた。その中で小沢氏が福島原発事故について政府を批判する発言をしている。その時の発言は「(原発の現状について)保安院・東電・内閣とも明確な話はずっと避けてきた。(国民の)皆さんに状況を正直に話をして、理解を求めたうえで思い切った策をとると」(民主党・小沢一郎 元代表)と言う内容の発言で、合わせて、事故発生以来、二週間以上も原子炉の制御が不能に陥ったままと言うのは、世界でも例が無い事、と事故後の対応にっ付いて述べている。
 現在は、民主党の党員資格停止処分中の人と言っても、日本の政治家として依然として大きな影響力を持った国会議員の言葉として、聞き捨てなら無い発言だと受け止めた。別に小沢氏の政府批判の発言がけしからんと言うのではない。現在与党の中で役職を持たない人と言っても政治の中心にいる人が、政府や原子力安全保安院、、東電がともに明確な話はずっと避けてきた、国民に状況を正直に話して、と言う下りは、暗に、政府が国民に対して本当の情報やリスクの開示を躊躇してきた、と受け止められ兼ねない発言だと思うからだ。大震災以来、政府は原発事故に対して枝野官房長官が選任のかたちでこれに当たり、逐次記者発表をおこなって来た。私も彼の発表を注目して聞いて来たが、極力、言葉を選んで国民に動揺を与えないよう、配慮した発言に終始してきたと思っている。しかしここまで来ると、さすがに内閣のスポークスマンと言っても、所詮、専門家では無い彼が伝える記者発表は、真実味が感じられ無くなって、そのことがかえって、一般に疑心暗鬼と風評を広げる結果となっているのではないだろうか。その上、昨日は東電が放射線量の測定で、政府基準の10万倍を1000万倍と間違った計測数値を発表したとして訂正している。原発事故の対応に当たる当事者で、高度の専門性を持つはずの人達の、このような間違いは考えられない事であり、東電そのものの当事者能力に疑いを持たれても致し方ない出来事である。
 国際原子力機関の天野事務局長も急遽来日して、状況視察を行っている。又米国や原発大国のフランスも今回の事故には、大きな関心と危惧を持っていると思う。
 政府は、広く、国際的な原発技術者の力も糾合して、思い切った対応策を図るべきではないだろうか。この状況下、あらゆる方策を検討すべきで、躊躇している時間は無いと思われる。
  地震災害に見舞われた東北の被災者の人達は、大変我慢強い。福島第一原子力発電所の半径20キロ圏内の避難指示に黙って従っている人達も、自分がその立場だったら如何だろうと考えると、日本人は本当にお行儀のいい国民だなと感心するのです。
 春に向かう今、高校野球も開催されて、多くの人達が子供達の熱闘に、一時の時間を忘れて声援を送っている。津波の惨禍に見舞われた東北の地は、これからが本当の現実に立ち向かう正念場になると思うのです。今まで日本が世界の中で築いてきた政治、経済、文化の地位も、今回の未曾有の惨禍を契機に、ひょっとしたら正念場を迎えるのではないかと思うのは考え過ぎだろうか。

2011年3月27日日曜日

福島第一原子力発電所のこと(2)

 毎日、原子力安全保安院のスポークスマンが、福島第一原子力発電所の状況説明をしているが、聞いていると、相当量の放射能物質が計測されているとの事だ。しかし、説明ではどうして、そのような強い放射線が出ているかの理由は、推測以外にはっきり分らないと言う。しかも現状数字が確認されても20キロ以内は避難指示が出ているので、人体に健康上の影響は無いと、あっさり言うのだ。
 これらの日々の記者発表は、どうも可笑しいと思えてきた。毎日、記者発表で数字を伴った発表を行っている事でイクスキューズにしているのでは無いだろうか。これらの極めて強い放射線が観測されているにもかかわらず、我々一般の国民が聞いても、だから如何だという事なのだ。
 しかも今日、冒頭のニュースで強烈な放射能の数字を伝えているNHKのアナウンサー自身も、その数字の意味を理解していないように思える。伝えるほうも視聴者も、その数字の実際の意味を理解しないまま、数字だけが伝えられている様に思えてならない。
 後になって、政府も東電も、観測数字は逐次現状を伝えて来ました。30キロ圏内でも自主避難を勧告していたはず等と、と云いかねない。原子炉内の核分裂によって放出されるレベルの観測数字が発表されながら、その意味が一般に知らされること無く、事態がより深刻化することの恐怖を感じる。チェルノブイリ原発事故の際、ソ連政府は事故を対外的に公表せず、その処理に当たる作業員や、軍関係者にも正確な情報を伝えなかったと聞く。一般国民が理解出き無い数字を、いくら発表しても何の意味も無いと思うのです。
 原子力に詳しい、研究者では今回の福島第一原発事故は、長期的にチェルノブイリ原発事故を上回る、極めて深刻な事態に発展しているとの認識を持つ人もいるようだ。
 政府は、是非正確で分りやすい情報を開示すべきで、今後のリスクや見通しについて、専門家から詳しく、国民に説明する義務が有ると考える。
 各報道機関が、コメンテーターを交えて、色々な報道をしているが、これも、素人がにわか勉強で、一般視聴者に無責任な講釈をたれている域を出ていない。無知な者の危惧であれば幸いであるが、後になって、本当はこうだったなどと言う冗談は無しにしてもらいたいものだ。
 それと、報道機関もこの状況を、直近のトピックスとして面白おかしく報道すべきではないと思う。
東北地域を中心に2万7千人を大きく上回る死者が確実視され、それと合わせて、未だに収束のめどの立たない原発事故が同時進行している現状は、ある意味大変な危機と考えざる負えない。
報道機関は、商業主義的なセンセーションを狙った報道を、厳に謹しまなければなら無いと思う。 

宇治市伊勢田町界隈

 土曜日の夕方から、一泊二日で実家の義母を訪ねた。そこは、京都府の宇治市。この地はいつもならこの時期暖かい地域だが、今年はここでも空気が冷たい。母は89歳で、週の内三日はデイサービスに行っている。土曜日もその日だったので、母の帰りに合わせて、夕方の訪問となった。
 二週間に一度の訪問だが、母は娘の来るのをとても楽しみにしている。
昨晩は、いつもなら、食事と入浴を済ますと八時にはベッドに入る人が、10時頃まで、妻と話し込んで、なかなか寝ようとしなかった。明日は、花屋に連れて行って欲しい、とか、近くのショッピングセンターで、安くていいからデイサービスに着て行く変えの洋服を買いたい、等の希望を娘に伝えて、一緒に行くのを楽しみに寝たようだ。
 私が、六時過ぎに起き出して、掘炬燵に足を入れていると、七時過ぎには起きてきて、自分でコーンスープと目玉焼きをつくり、スライスチーズを乗せたパンを一枚、ペロッと食べた。耳が遠くなって、話す時は、少し大きな声で話さなければならないが、この分なら当分元気に過ごせそうだと、妻と話している。
 翌日は、好天になったので実家の近辺をアンディーを連れてウォーキングに出た。すぐ傍には、この土地の氏神様の伊勢田神社があり、大きな桜の木に、今にもはじけそうな蕾がぎっしり付いていた。静かな住宅街を30分ほど歩いたが、所どころにおお茶を扱う古そうな会社があった。その中に
北川半兵衛商店とい看板の掛かった会社があって、後で母に聞くと、いつもそこでお茶を分けてもらうとの事だった。文久元年創業というから、150年前からお茶を商っていて、お抹茶で有名なお店だとの事だ。さすがにお茶所で、母のところで入れてもらうお茶も、普段自宅で飲むお茶とほ違って、なんとも美味しい香りがする。
 母の買い物に付き合って、三時過ぎには宇治を後にした。

2011年3月26日土曜日

福島第一原子力発電所のこと

  福島第一原発の状況が、連日ニュースのトップで報道されている。日本人は太平洋戦争で、唯一広島、長崎への原子爆弾の投下を受けた国民として、その惨劇を経験している。原爆投下後、その土地の人達がどれほど、放射能の被害に苦しんだ事か。戦後66年、二酸化炭素を放出しないという事から原子力の平和利用が推し進められ、日本でも、一般国民の自覚のないままに、55基もの原子炉がつくられているとの事である。戦後の復興と経済成長に国内の電力エネルギーの確保は必要不可欠であった。特に国内にエネルギー資源を持たない日本にとっては、原子力の平和利用の技術向上は、願っても無い事であったに違いない。
 全国で、原子力発電所が計画される度に、その地域で導入の賛否が繰り返されてきたが、一般の国民にとって、大きな関心とはならなかったのが事実ではないだろうか。
 国や経済産業省の推進策とも相俟って、電力各社はこの狭い日本に原子力発電所の建設を競ってきた。そして、今回、過去の想定を遥かに上回る大地震によって引き起こされた大津波が、太平洋岸に建設されていた6基もの原子炉を直撃したのだ。原子炉施設に襲い掛かった津波は、原子炉の稼動に必要不可欠の冷却装置と関連施設を破壊した。しかも今回の日本の原子炉の事故は六基もの同時事故で、そのいくつかで発生した、原子炉建屋内の水素爆発によって、その対応の難しさは予断を許さない状況となっている。
 今回の原子炉の事故の報道を受けて、1979年の米国スリーマイル島原発事故と、1986年ウクライナのチェルノブイリ原発事故についての概要の説明を読んでみた。それらの原因については、後に様々な検証がなされているが、原子炉そのものは一旦そのコントロール性を失うと、高温に達している核燃料の制御が極めて難しく、しかもいずれの事故にも人的ミスが言われているのも事実である。
 事故を受けてその対応に当たる者達を原子炉内から出る放射能が襲い、益々その対応を困難なものにしている。スリーマイル島の場合は死者は出なかったようだが、水素爆発で原子炉そのものが破壊され、大気中に大量の放射性物質を放出したチェルノブイリ原発事故は、その処理に当たった多くの軍人や作業員の命を奪う事となり、周辺地域や周辺国にまでその放射性物質の環境汚染を巻き起した。チェルノブイリ原発は周りを石棺と呼ばれるコンクリートの建屋で覆い、放射能を閉じ込めているが、それも建屋の老朽化と内部に閉じ込められている放射能が雨水の浸透から地中に溶け出し、汚染を広げている可能性が懸念されているとの記述であった。 私は、一概に原子力の平和利用を否定するつもりは無いが、それでも首都の電力をまかなう施設が破壊されて、放射能の拡散も含めて、今の大きな混乱に繋がっている事を考えると、電力供給の問題だけでなく、交通網、通信、水道などのライフライン、さらに食料確保の問題など、今回の震災は日本の有り様そのものについて、真剣な再検討を促しているように思うのです。
 この狭い日本で、1億2千8百万人が暮らしていかなけれならないとして、電力の事、水道の事、交通の事、通信の事それに食料の事など一つ一つは、本当に大丈夫なのだろうか、この当たり前の基本的事柄の再検証が求められているのではないでしょうか。
 国の様々な制度についても、多くの不具合が認められながら、なかなか、その是正、適正化が図られずに現在に至っている。先日NHKの朝のテレビだったか、大和総研理事長の武藤氏が、大津波によって、全てが破壊された東北三陸の地を、これからの社会に適合した希望のある地域に再生され無ければ、と発言されていた事を思い出した。二万人を大きく越える人的被害に繋がったこの度の大災害を乗り越えて、未来に希望のある日本社会が復興される事を、心から祈りたい。

2011年3月25日金曜日

遅い季節の歩み

  お彼岸が過ぎて、三月も最終週に入ろうと言うのに、余り気温が上がらない。朝の散歩も出がけは冷たい空気の中を歩く。暫く歩いて、いつもの公園に来ると、傍のボリュームのあるもくれんの蕾が今にも開きそうになっていた。この時期は公園の花も、水仙かビオラ、パンジーなど寒さに強い花だけだ。しかし、目を凝らして良く見ると、チューリップのが伸びてきてたり、桜の蕾も随分確り見えるようになってきた。
 梅の花が終わろうとする時に、雪柳や、ミモザの花が開きだした。散歩道からも大きなミモザの木が見えて、始めの内は、何の花か分らず通りがかりに眺めるだけだったが、名前が分ると、その黄色の花にも春の始まりを感じるようになった。例年であば、桜の花が開くまで二週間、今日であの東北関東大震災から、二週間、同じ時間であるが、過去の出来事は、余りに被災地に過酷な出来事であり、桜の季節には癒される事の無い大きな傷となりました。
 被災地の為にも、早く、暖かさを感じる季節の
到来が待たれます。

2011年3月24日木曜日

レンタルクラブが届いた

 私は、ゴルフクラブは昔からミズノのクラブを使っている。とくにドライバーはパーシモンの時代からミズノだ。昔、ゴルフを始めた頃は、昨年訃報を聞いたシングルの先輩から、これを使えといって渡されたベンホーガンのパーシモンが使い始めだった。当時は転勤先の四国の松山にいて、住まいの周りは田んぼが広がっていた。そばの、農業用の池に造られている練習場に、ドライバーを一本持って出かけ、力いっぱいボールを叩いていた。ボールは大きく左に飛び出し、ブーメランのように右にカーブして落ちる。いわゆる、どスライスの玉を打っていたのだ。力いっぱい叩くものだから、手前のゴムのマットを叩くと、当時はスチールのシャフトが弧を描いて曲がる。それを膝に当てて、元に戻しながら使うものだから、グリップ側から片目で覗くとシャフトが波を打っていた。
 それでも、ゴルフ場に出かけると、飛距離には自信があった。当時はシャフトが交換出来ることなど知らなくて、そのクラブを廃棄してしまった後、なかなか自分に合ったクラブを見つける事が出来なかった事を覚えている。
 長い間、ドライバーもスチールのものを使っていたが、その後、カーボンのシャフトが普及しだして、それを使うようになると、もっと自分に合ったクラブを見つける事が難しくなったように思った。その辺から、ゴルフクラブの遍歴が始まったように思う。ベンホーガンは勿論、クリーブランドのパーシモンヘッド等も試した。ミズノも、シャフトがカーボンになってもヘッドはパーシモンだった。ヘッドも、最初の頃は、カーボンのヘッド等があって、今の
チタンヘッドになる迄に、いろいろなものが売り出されたのだ。
 50歳頃から飛距離が少しずつ落ちてきた。それでも同年輩の者と競って、そんなに負けるような事が無かった。それが60歳台に入って目に見えて飛距離が落ちたのを自覚するようになった。
還暦前に、建物の二階から階段を踏み外して落ち、右手首の骨折などの怪我をしてから1年ほどブランクが出来たり、50肩になる度に、練習場から遠のいた。そんな事を経て行くうちに、自分の意識と体が連動しないゴルフになってきたようだ。それでも、飛距離が諦められない。自分が拘って使っている、ミズノからシニヤ向きの道具が出たりすると、それを試してみたい気持ちが、むずむずと、湧き上がって来る。
 そんな訳で、今回も3泊4日のクラブレンタルを申し込んだ。昔は、こんなサービスは無かった。
見た目で気に入って手にしても、実際使ってみると、必ずしも自分に合ったものが手に入るとは限らなかった。時代が進んで、ゴルフも女性や子供に広がって、皆に親しまれるスポーツになった。
クラブメーカーのこんな取り組みも、大衆化を広めているのか。

2011年3月23日水曜日

パンの粉の買出し

 我が家の朝食は昔からずっとパンとコーヒーだ。最近は、卵とハムと果物少々に私の好物のプルーン等で朝食をとる。若い頃は、パンも厚切りを確り食べていたが、この頃は薄切りになって、果物なども、多いと残すようになった。パンは二十年来、家内が自宅で焼いているが、一回焼くと、今頃は十日ほどあり、すぐ冷凍したものを、食べるだけ解凍して出す。食べ盛りの子供達が居た頃は、一度焼いても、ペロッとたいらげられて、又すぐ焼かなければならない状態だったらしい。
 そう思えば、最近、家内が菓子パンを余り焼かなくなった。大体、孫が来るとか、娘の所や実家の母に持っていく時に、おいしそうな菓子パンを焼いていたのだ。
夫婦二人になって久しいが、二人とも小食になってきたのかも知れない。それと、家内が焼く朝のパンは我が家の主食で、和食の朝食をとる人達のご飯のような感じなのかもしれない。
 私の方から、リクエストすると、ロールパンやフランスパンを焼いてくれる時もあるが、いつもは食パンが定番だ。
 前回、焼いたフランスパンと、今回焼いたロールパンで手持ちのパンの粉が無くなった。
一度、神戸のほうのパンの材料を扱うお店まで、見に行って、そこのパンの粉を買った事があるが、焼き上がりは、やっぱりいつもの粉のほうがおいしかった。
 そう言う事で、今回も新御堂筋の江坂にあるジャパンホウムベイキングスクールを訪ねた。
このスクールは家内のパンの先生が所属しているところで、家内は昔からこの先生を通じてパンの材料を手に入れていたが、スクールでもパンの材料を販売する様になり、直接そこで購入するよう言われたらしい。今回は、2.5キロ入りの食パン粉の袋を三つ、フランスパン粉の袋を一つ、菓子パン粉の袋一つ、それにショートニングなどを購入して帰った。これで又、当分おいしいパンが食べられる。
 私の、好きな安いコーヒーは先日、少し買い込んだ。買いだめをするつもりは無いが、必要なものを、少しずつ手に入れている。

        

2011年3月22日火曜日

芥川賞全集 第5巻

  クラシック音楽やオーディオの評論家でもあった、五味康祐のオーディオ巡礼を読んで、彼の芥川賞受賞作を読んでみようと思った。彼は、1980年に57歳で亡くなっており、主に剣豪を題材にした小説を書く傍ら、クラシックのレコード音楽をとても愛した。そのため、レコード音楽を自らの納得する音で聴きたいと、当時としては、中途半端でない取り組みをした人として知られている。
  日本が、戦後の高度成長を向かえ、オーディオブームが始まった頃でもある。私はその頃、まだ30歳そこそこだったが、給料をはたいては、あれこれオーディオ機器を取り替えていた時期だった。そうした時期に、五味康祐は業界でも知られたオーディオ通だったのだ。
  私の弟の家にあるJBLのパラゴンという家具のようなスピーカーの鳴らし方に付いて、ステレオサウンド誌で五味氏が寄稿していたことを思い出して、オーディオ巡礼を読んだことから、氏の芥川賞受賞作に興味を持った。
  アマゾンをネットで検索してみると五味氏の芥川賞受賞作品、「喪神」は芥川賞全集の第五巻の最初に入っていることが分った。ただ全集の第五巻はアマゾンでも四千円もするので、最寄の図書館で借りる事にして、一番近い川西の中央図書館に足を運んだ。
  ところが、川西には無くて、猪名川町立図書館から取り寄せて、ようやくその本にお目にかかった。「喪神」は短編の小説で読み始めると、なかなかすらすらとは読めない。活字がとても小さい事だけでは無く、硬い文章と読みずらい字に、つまりつまり読み終わったが、その読み終わりに、書き出しから終わりまでの筋書きが、一つになって浮かび上がって来るような感想を覚えた。この小説は、後に映画化されたとの事だが、剣豪小説というよりは、剣を極めた一人の人間の生き様を示しており、格調の高い文章と評されていて、それは私にも理解できた。
  それと、この芥川賞全集第五巻には、松本清張の、或る「小倉日記」伝、という作品や石原慎太郎の「太陽の季節」、他、九氏の受賞作品が修められており、松本清張の或る「小倉日記」伝などは、短編ながら、さすがと感じる滑らかな文章で面白く読ませてもらった。

2011年3月21日月曜日

春分の日とお彼岸

 私は、今、会社を退職してから、祝日の休みというのは特に関係なくなった。今年は三月二十一日が春分の日で月曜日に当たるので、世間は三連休だ。現役の時は、休日は分っていても如何いう休日なのかまで、余り気にする事もなかったのが事実だ。
 それと、年が明け、奈良、東大寺二月堂のお水取りがすんで、三月のお彼岸が来ると春になるという、なんとなくそんな認識を持っていた。 妻も妹達と連絡しあって、お墓参りの予定を話し合ったり、実家に連絡を入れたりする。 私にとっては、その辺の行動は、周りに任せていて言われるままに動く無意識の行動のような気がしていた。ようわ、春分の日と言うよりは、春のお彼岸の墓参りの時期と言うのが自分の認識になっていた様に思う。                                         
 そこで、あらためて春分の日とお彼岸について、ネットで拾って見てみた。
春分の日は、「自然を称え、将来のために努力する日」と法律で定められた祝日となっている。その日付けは前の年の二月一日に、国立天文台がつくる「暦象年表」という小冊子に基づいて閣議で決定されるという、こ難しい規定になっているらしい。又、この頃、昼と夜の長さが同じになるとされ、昔の人は自然に感謝して、この日の前後に祖先のお墓参りに行く習慣が生まれたという。
 古来、農村部では春の訪れを祝って、祖先に感謝するお祭りを行う習慣が長くつづいてきたらしい。明治に、春分の日を「春季皇霊祭」として皇室で祖先を祭る日となったのをきっかけに、一般でも祭日に規定されたとの事だ。この法律の制定は1948年との事ですが、以上のことから、一般には春分の日というと、二十四節季の彼岸のイメージが強く残っているといわている。
 私は、妹と待ち合わせて、三連休の初日にお墓参りを済ませた。一般道も高速道路も西行は車であふれていた。春の訪れで、世の中が急に動き出したのかと思わせるほどだった。

2011年3月20日日曜日

松島青龍山瑞巌円福禅寺

  私は東北の地を知らないが、学生時代の男声合唱で、東北地方の数々の民謡に接してきた。山形の最上川舟歌や福島の相馬盆歌、それに宮城の斉太郎節(大漁唄い込み)等、コーラスに編曲された民謡を歌った。それらを演奏会などで発表した後も、編曲された歌よりも、その地方の生の民謡が好きになった。
 日本民謡はその独特の節回しや声の張りなどがとても難しく、なかなか巧く歌える物ではない。そのため自分で歌うよりも、民謡を歌い込んでいる人達の歌を聞くほうが好きなのだ。最近は、声も出なくなって歌えないが、若い頃、何とか歌えたのが、大漁唄い込みだった。
                松島の サーヨー 瑞巌寺ほどの
                      寺もないとエー
                アレワエーエ エトソーリャ 大漁だエー

                前は海 サーヨー うしろは山で
                      小松原とエー
                アレワエーエ エトソーリャ大漁だエー

                石巻 サーヨー その名も高い
                      日和山とエー 
                アレワエーエ エトソーリャ 大漁だエー
 この歌は、漁師の大漁を祝った歌で、目出度い席などで良く歌われる宮城の民謡である。それに、ハアアーアイヨー 今年ゃ豊年だよ アコーリャコリャ 穂に穂が咲いてヨー と歌われる相馬盆歌も楽しい民謡なのです。それから、遥かかなたは 相馬の空かナンダコラヨート と歌い始める新相馬節は 秋の夜寒に 針の手とめて 主の安否を 思いやる ナンダコラヨート、 今この歌詞を聞くと、なんとも、哀愁を感じる事となりました。
 斉太郎節の歌詞に出てくる宮城県松島町の瑞願寺は正式名称を、青龍山瑞巌円福禅寺と言って、伊達政宗が伊達家の菩提寺として保護した寺です。
私の家も日ごろ、臨済宗妙心寺派で八幡の円福寺に世話になっている事から、この遠く宮城県の地にある瑞願寺は、かねてから何処と無く親しみを感じていました。
 大震災で、こんな事になる前は、奥州陸奥と言ってもとても遠い土地のように思っていましたが、一日も早く、被災地の人達がホットできる日が来ますように、私達皆が何か出来る事でお手伝いをしていかなければと思っています。 そして、東北の人達が、又あの楽しい民謡を歌える日が早く来ますようにとお祈りしています。

2011年3月19日土曜日

友人がくれた玉の光

 私の父は、無類の酒好きで、私の子供の頃のお使いは、酒屋に酒を買いにいくこととだった。月の初めは、サントリーの角を買いにいかされた覚えがある。大体それが3日ともたないで、その後は、日本酒の一升瓶を買いに行った。ウイスキーの時は、ウイスキーをビールで割って飲んだりしていた。酒の入った父は、普段の気難しい顔とはぜんぜん違って、陽気になり、子供達を笑わせたりした。子供達は食事をする父の周りで、父の酒の肴に母が焼いたテキのおこぼれに預かったりしたものだ。そのような父は、昔から一日二食が習慣だったが、いつも、夕食は酒が主食のような物で、最後はお茶漬けで終わっていたと思う。
 酒好きの父に似ず子供達は皆、酒がだめだった。これは、母方の血を引いたのではないだろうか。私も成人して、人と酒を飲む機会などが有ると、グラス一杯のワインで顔は真っ赤になり、一升ビンでも空けたようだと笑われた。そのため、現役の時も乾杯程度は口にするが、自分から好んで酒が欲しいとは思わなかった。
  しかし、仕事で、どうしても酒を付き合わなければ成らない場面も出てきた。そんな時、したたか飲むと、トイレに立って、洗面でもどし、顔を洗って又酒席に戻って飲む。こんな時は、自分ながら飲んだら飲めるな、と思ったもので、量を飲んでも決して酩酊するような事が無かったのは、父の血を引いていたからだろう。
 その私が、晩酌をするようになって2年以上がたった。きっかけは、友人から送られてきた日本酒だった。それは純米酒の「玉の光」と言う酒で、夫婦で飲むのが好きな友人が、夏場、冷やして飲むといけるよ、と送ってくれたものだった。彼は京都の伏見の出身で、実家が酒造会社の運送を引き受けていた会社の息子だった。夫婦で付き合って40年以上に成る。
 この、「玉の光」が私の体に合ったのか、食前酒として飲みだしたら、随分口当たりが良くて、冷たく冷やした白ワインの趣があった。その後、ディスカウントストアーなどを覗く様になった。色々な銘柄が並んでいて、母が父のために買っていた「菊正」、酒好きの別の友人が昔飲んでいた「剣菱」、ゴルフ仲間が、私なんか、紙パックの、「のものも」で十分ですよと言う大関酒造の製品など、多くの酒が棚にあった。一つ二つ、別の酒に手お伸ばして、飲んでみると、これが又、一つ一つ舌触りが違う。
 今も量を飲むことは無いが、最近、他の銘柄の味わいを楽しむような飲み方が出来るようになった。身内にも酒の先生がいて、最近私が飲みだしたと聞いて、わざわざ、純米大吟醸「獺祭 」(だっさい)と言う酒を持って来てくれた。これが又、私的には、香りが良く、シャキットした舌触りとでも言おうか、おいしく頂いてしまった。
 タバコは思い立って止めてから二年が過ぎた、このタバコと入れ替わるように日本酒を飲むようになったが、体重は75キロ、一時の事を思うと2~3キロ増えたか。
この上は、サボりがちのゴルフ練習で汗をかかなければと思っている。

2011年3月18日金曜日

卒園式とモノレールの記憶

 今は、あちこちで卒業式が行われていて、私どもの孫も一昨日が卒園式だった。父親が仕事で出席できないというので、妻が出席することになり、園まで送っていった。
 幼稚園の卒園式と言っても、当節、両親で出席したり、お爺ちゃん、お婆ちゃんが出席したりでたいそうな様子である。 
 3月も半ばと言うのに、小雪交じりの風が吹く寒い日で、私は娘のところで留守番をしながら、震災のニュースに見いっていた。
 娘の車を借りていたので、帰りは近くのモノレールの駅まで送ってもらう。
いつも通りなれた頭上を、大阪モノレールが運行しているが、私はまだそれに乗った事が無かった。伊丹の大阪空港から、千里万博公園を通って、今は門真市のほうまで延びている線だ。
 昼過ぎの事で社内もゆっくりしていて、ぼんやり外を見ていて、20年ほど前の同じような光景を思い出した。それは、1989年の社内研修名目の豪州旅行の時、シドニーの市内を走るメトロモノレールに載った記憶だった。
 当時も、3月だったが、シドニーの街中は、どこか明るくて遊園地の乗り物に乗っているような感覚を覚えている。
 大阪モノレールは随分高いところをう運行しているが、シドニーのそれは、運行する線が低くなっていて、市内のビルの間をかすめるように動いていた記憶があった。海が近く沢山のヨットやボートが見られ、湾の入り口には、オペラハウスの建物が望める。日本とは違った町の様子を、モノレールの上から眺めたのだろう。大方忘れてしまったが、22年振りに乗ったモノレールの記憶だ。大阪空港手前の蛍池で阪急電車に乗り換える時は、外は又、雪になっていた。

2011年3月17日木曜日

国の震災復興

 国会は東日本大震災を受けて、休会となっている。発生より7日を過ぎて、震災復興の取り組みも本格化すると同時に、復興に向けた国の予算処置が注目される。今朝も、日本経済新聞の日本経済研究センターからの提言として、紙面が割かれており、その提言のあらましは、5兆円ほどの震災復興税の発動で、高速道路財源、子供手当ての財源及び法人減税も凍結してこれに当てるべきとの主張であった。様は、国債を増発するのではなく、増税によって、今回の震災復興費用を捻出せよとの主張なのである。現在日本の、国と地方を合わせた、いわゆる借金は、22年度末の財務省概算で、919兆円と成っていて、対GDP比184%だそうである。これを踏まえて、正当と言うか、常識的には日本経済研究センターや国債残高の積み上がりを懸念する政治家を中心に、増税による復興費の捻出が唱えられる可能性が高いと思われる。しかし、首都直近の東日本大震災を受けた日本の現状で増税による予算措置は正しい方策だろうか。
 昨夜の取引で為替が15年11ヶ月振りに大きく円高を更新し76円台をつけている。平成7年の阪神淡路大震災時も円高に触れたが、今回の円高は、日本の円需要の高まりから、日本の海外資産の円キャリーと、国際的なドル不安の観測がダブっているとの思惑からであろう。ただでも国内はデフレ傾向を脱し切れていない中での、大災害の発生、日本の更なる経済停滞を危惧する国際社会の状況から、各国の株価やエネルギー、金価格などが、一斉に値下がりしてきている。
 2年前の、リーマンショック前の水準を回復したかに見えた経済指標が、今回の震災で、新たに国際的な不安を広げている。それには、技術力の高さが認知されていた日本での、思わぬ原発の事故も大きく影響していると思われる。
 このように、内外とはず、不安定な経済状況が見られる状況下では、常識的な経済処置が正しいとは思われない。
 社会インフラが大きく損われた今こそ、一気に、10~15兆円の復興国債の日本銀行引き受けを決断して、日本経済全体の更なる景気落ち込みを支えるべきではないだろうか。東日本の経済が大きく損われた今、増税により、その他の地域、日本全体の景気下落は、何としても避けなければならないと思うのです。国会が再開されれば集中的な議論がされるものと思うが、この期に及んで、与野党は党益を盾に対立すべきではでは無く、一致協力して最善の策を練っていただきたい。
 データーも持たぬ素人の発言で恐縮だが、震災後の今から経済は、大きな引き波に襲われると思われる。しかし、政府が正しい復興への取り組みを決断すれば、必ず大きな寄せ波となって日本経済を満たす事になると思うのです。塞翁が馬と不屈の精神でこの難局に取り組まなければと考えます。

2011年3月16日水曜日

東北の被災地を思う

   今までに、誰も経験した事のない大災害に見舞われた日本、マグニチュード9.0と10メートルにも及ぶ津波は、いずれも、これまでの想定をはるかに越えるものだった。そして今回の地震によって引き起こされた大津波が、我が国が今までの災害で経験した事のない人的被害をこうむる事となった。
 しかし、今、冷静に考えると、電力供給のダメージによる首都圏の混乱は、事前の備えが出来ていたのだろうか。計画停電は震災時に事前の方策として予定されていたのだろうか。原子力施設の危機的状況はあらゆる観点から安全が図られて来たのだろうか。原子力の平和利用が、商業ベースに乗る為に、今まで取られて来た国の施策は十分な安全性の上に進められて来たのだろうか。色々の、素朴な疑問が沸いてくる。
 人工衛星やスペースシャトルを宇宙に打ち上げるほどの技術力を誇る人類が、津波によって、原子炉の冷却手段を奪われ、原子力利用の世界的問題と成りつつある。原子力施設は、そのほとんどが、海に面して建設されていると言ってもいい。元々、地震が多発する我が国において、津波の被害は想定された事だったのでは無いだろうか。
 被災された三陸地域の方々にとって、今回の天災は避けようも無かったに違いない。
しかし、国、地方行政、企業とそれを支える人達には、悔やみきれない事態となったのではないだろうか。
 今は、被災者、被災地の救援が最優先であり、同時に電力会社やJR、その他の交通輸送を担う人達の全力での頑張りが期待される。
 自衛隊、消防、医療従事者の現場での苦労を思うと、頭が下がる。現地は冷え込みが厳しさを増し、高齢者や子供の健康が気に掛かる。
 私達家族も、平成7年1月、阪神淡路大震災を経験した。阪神地域も、今は何とか復興を果たし、以前の生活を取り戻す事が出来た。
 懸命に大災害を受け止めておられる被災地の皆様が、心を強く持って立ち上がられる姿を期待するばかりである。