2011年10月30日日曜日

地域のひばり祭り

 私は地域の自治会で書記と言う役を仰せつかっているが、実際、書記らしい仕事をした事が無い。ただ、役員には地域で行なわれる様々な年間行事で担当が割り当てられていて、私の場合は、地域にある大学の学園祭に自治会のブースを出展する事と、もう一つ秋に地元の小学校のグランドを借りて行なわれる、ひばり祭の催しに、同じく、水槽ゲームの出展をする担当者の一人になっている。
 先月来、何度か地域のコミュニティーで会合が持たれ、私もしょうがなく顔を出して来たが、今日がその当日で、昨日から其の準備に駆り出されていた。
 自治会館から3台の水槽を小学校まで運び、貸し出されるテントを張ったり、水槽の中に浮かべるヨーヨーを造ったり、それなりに働かされた。
 幸い、私の場合もう一人の若い担当者の手助け程度で、主な手はずは彼が行なってくれた。
 今迄、そうした、地域の催しなどに、ほとんど関わってこなかったので、新鮮に感じる事もある。こうした、地域の催しは、主に小学生の子供を持つママさん達が其の役割を担っているようで、其の外に地域で古株のシニヤの顔も、参加している。
 3台の水槽に、ヨーヨーと樹脂性の金魚やスーパーボールと言うラムネの玉を一回り大きくしたボールを水に浮かべ、紙のへらですくったり、ヨーヨーは紙のコヨリの先の針金に引っ掛けて吊り上げる遊びの出店だ。此れが、以外に、小さな子供に人気で、暇をもてあそぶ事の無い盛況だった。
 焼き芋、焼きそば、向かいには綿菓子やフランクフルト等の店が並び、地域の農家から、取れ立ての野菜や秋の果物が運び込まれた。吹奏楽の演奏や、お琴の演奏なども行なわれ、ビンゴゲームに歓声が沸いた。
 あいにく、うす曇りから、小雨のぱらつく天気だったが、大勢の地域の子供達や若い人たちが足を運んで、雨が、本降りになる前に開きになった。

 年間の、担当行事を終えて、やれやれの一日だった。
 
 

2011年10月27日木曜日

秋の山郷に歴史が

 今年の秋は、去年から訪れている能勢町の道の駅「栗の里」や丹波篠山に行って、早くから栗を買って来ては栗ご飯にしたり、ふかして食べている。
シーズンも深まってきて、3度目の栗の買出しに行って来た。今回は、栗も大粒で1キロ1.500円の立派な銀寄せが買えた。そろそろ、能勢の「栗の里」でもいい栗は売り切れになるのかも知れない。家内は、今回の栗の一部はお正月迄取って置く、と言っていた。
 「栗の里」では、此れもシーズンの黒大豆枝豆がふさの状態で売られており、訪れた人たちは、たくさん買い込んでいるのを見かけた。
 この所、北摂から、大阪、兵庫の北方面に出かける事が多く、私はそうした田舎の雰囲気がとても好きになっている。兵庫県と言っても、宝塚は大阪府に隣接しており、宝塚、川西から、北に向かうと、そこは大阪府の能勢町になり、そこからさらに北に走ると、すぐ京都府に入って来る。
 家内の両親の出身地、京丹波町などは、むしろ京都市内から向かうより、宝塚を北に向かって走ったほうが、近いくらいだ。
 能勢町で栗を仕入れたついでに、能勢から近い景勝地の「るり渓」に周ってみた。そこは、京都府南丹市園部町になる。
 大阪に勤務していた現役の頃、一時期阪急電鉄が作ったここのるり渓ゴルフクラブに良く来ていた。豊中から箕面の山を越えて、田舎道を走り、1時間ほどの距離にあった。夏は涼しく、高原のリゾートコースの様で、ベントグリーンが綺麗な面白いコースだった記憶がある。来なくなって、もう10年以上にも成る。当時は、ゴルフが目的でここに行っていたので、周りの景色は二の次だったが、今回、改めて来てみると、そこには立派な温泉施設などが出来ていて、近隣から人々が入浴に訪れる手軽な観光スポットに生まれ変わっていた。
 るり渓は、山から川幅の狭い渓流が流れていて、昔から、茶店や食事のできる古い店などがあった。新しい温泉施設も覗いてみたが、こちらはペット連れの為、施設近くのベーカリーカフェでコーヒーを飲んでそこを後にした。
 高原から372号線に出るまでの田舎道を走っていると、道端に大山祇神社と言う石碑が目に留まった、どこかで聴いた事の有る名前だった。車を下りて見に行くと、社殿は重要文化財の立て札があり、なにやら由緒の有る神社の様だ。園部町大河内と言う所で、後で調べてみると、瀬戸内、愛媛の大三島に総本社がある大山祇神社(オオヤマズミジンジャ)の名を関しているが、熊野三所権現を祭る神社とあり、足利尊氏と戦って敗れた楠木正成を祭るとも言われていた。
 るり渓の有る園部町に大河内と言う地名が残るのも、河内守であった楠正成がこの地に来た事から、その地名がついたとの事だった。
 372号を走り、途中を北に向かうと綾部方向になるが、帰り道は、何時も篠山、三田方面に回りこんで川西に向かって帰るコースを取る。
 事前に下調べをして行けば、郊外の山郷に興味深い歴史が、いっぱい埋もれているような気がした一日だった。

2011年10月25日火曜日

放射能汚染の対策は

  3月の大震災から、まだ半年しか立ってい無いのに、新聞もテレビのニュース報道も、如何いう分けか、それが遠い昔の出来事で、もはや当時を思い出す回顧報道になってい無いだろうか。日々、新たなニュースが飛び込んで来て、マスコミにとっては、何時までも過去の出来事に関わっていられないのかも知れない。リビヤでカダフィーが殺された。タイのバンコックが水浸しで、日本企業は大打撃だ。等等。
 しかし、現在、被災地はそんなにめざましい復旧を遂げているのだろうか。
福島の原発事故の終息は近いと言えるのだろうか。
 特に、私が気に掛かるのは、原発事故発生直後から大気中に大量に放出された放射性物質への対応なのです。今日、テレビ朝日の報道で、原発事故発生直後からの関東地域の放射能汚染マップがようやく出来たとのニュースに接した。
 3月13日からの福島周辺の雲と風の流れから、原発を起点にして東の方、群馬県を回り込むように雨が降り汚染が広がっている。又、3月21日からの雨雲の流れから太平洋沿いに千葉県の柏方面に汚染が広がったと言う。
 あたかも、その柏で、とても強い放射性物質の反応を示す地点が見つかった。それにも関わらず、私がとても不思議に思うのは、其の事に、国が直接対応している節を感じられ無い事なのです。
 其のほとんどが、地域自治体にまる投げされており、新設された、震災復興相とか原発事故担当相や経済産業省、文部科学相等、それに強く関わるべき政府の関係者や関係大臣の影がとても薄い事なのです。しかも、報道機関やマスコミも、何か、人ごとの様な報道振りで、国の対応についての疑問を追求する事も無く、政府自体に放射能汚染に対する危機感が薄いのでは無いかと感じるのは如何してなのだろうか。
 本来なら、事故発生から6ヶ月が過ぎた今、冷静に事故発生当時を検証して、放射能汚染についての政府除染対策本部を総理大臣自らが陣頭指揮するぐらいの対応が取られても可笑しくないと思うのです。
 昨日も、子供を持つ若いお母さんが、子供に食べさせる食品の放射能汚染が気気掛かりで、安全な食品を自ら選別して購入している様子を、テレビで見た。
 何と、日本の国民は皆お行儀が良く、個人こじんが黙々と、放射能汚染対策をしていて、国や政府に対いして要求する事は有りません。
 菅総理を首にして引き継いだ野田新内閣は、発足当初から、おっとり構える暇など無い状況で内閣を引き継いでいる分けで、国民の生命財産を守ると言う最大の使命を思い起こさ無ければならない。
 原発事故周辺の自治体で個別に除染作業が進められている事は、良く承知しているが、汚染物質の処分も含めて、地域行政に任せるのでは無く、政府組織の全体で取り組むべき喫緊の問題では無いだろうか。

2011年10月23日日曜日

古民家で陶芸展

   私が住むマンションの斜め向かいに、とても愛想のいい奥さんがいる。家内とは犬友達で、出会うと何時も立ち話に花を咲かせる相手だが、最近陶芸を始めたらしく、内の奥さんが長らく陶芸をしている事を知っていて、自分の陶芸教室の展示会の案内を持って来た。
 其の奥さんの教室は、私のマンションのすぐ裏にあり、家内は教室を開いている女性とも、知り合いだった。内の奥さんが通う教室とは少し趣が違って、陶器のお茶碗やお皿、の製作と言うよりは、オブジェや前衛的な作品が主体の教室らしく、前から、たまに覗いていたらしい。
 今回の展示会場は豊中の服部緑地公園の中に有る、日本民家集落博物館内とあった。服部緑地は私が住んでいった千里中央に近く、良く知っている所だが、今迄、あまり中に入った事が無かった。
 中には、陸上競技場や、テニスコート、乗馬練習場まで有る相当広い公園で、家内などは、子供が小さかった頃、弁当を持って花壇の有る広場などを訪れた事があるらしい。確かに、北大阪の新御堂筋に沿って、こんなに広い緑地帯は、貴重な場所である。
 駐車場を探しながら、公園の外周を走っって車を止めると。目的の日本民家集落博物館は、駐車場からそう遠くない所にあった。
 入り口で入場料を払って中に入ると、そこはまるで古びた里山の佇まいで、マンション群が立ち並ぶ新御堂筋近くとは思われない雰囲気だった。
 入り口には、堂島の米蔵がすぐ横に配され、奥に進むと、越前敦賀の民家や摂津能勢の民家、飛騨白川郷の民家など、いずれも茅葺の趣の有る昔の家屋が点在しており、わざとだろうと思うが誘導路なども昔の田舎道を思わせる配置で、とても自然な趣だった。折から、紅葉が垣間見られ、こんなに近い所で、自然の雰囲気を味わう所が有る事を、今迄知らなかった。
 陶芸展は其の飛騨白川郷の民家を展示会場にして、作品が並べられていた。
私は、周りの雰囲気や、外から覗く家屋の内部を写真におさめた。
 小雨が振り出した庭の栗の木の下には、紅葉した落ち葉の上に栗のいががそのまま転がっていて、田舎の里山そのままだった。

2011年10月21日金曜日

復興対策予算の確保

   ようやく、政府、民主党で第3次補正予算が合意されたとのニュースを聞いた。野党も法案成立に協力すると言う。
ずいぶん前のことに成るが、今回の東日本大震災の復興予算について、増税するのではなく、日銀の直受けでもいいから、復興国債を発行して対応すべきと、このブログで書いたが、国の借金の現状を知り、それなりの見識の有る人なら、馬鹿なことを言うと思ったに違いない。
 しかし私は、此れまでのささやかな金融の現場を見てきた経験から、ここに至る現状のデフレの実感を見るにつけ、復興の為の予算は、其の為なら国民の理解も得られるとして、増税によって予算措置をする事は、「直感的」に間違いだと感じた。
 日本の現状は、大震災前からはなはだ芳しくなく、なかんずく、米国、欧州を中心に景気と国家財政に対する懸念が日増しに増して来ている時期に、増税と言う選択をすることは、東北の復興以前に日本全体の体力を削ぐ結果になりなりはしないかと危惧したからです。
 民主党政府は、野田首相が、直近、財務大臣であったことも有って、どうしても、財務省主導の増税路線が先行するのではないかと思った。ましてや、野田内閣で財務大臣に就任した安住氏などは、いつ国家財政や、金融について論じて来たのだろうと、首を傾げたくなる人事ではなかっただろうか。
 為替の円高についても、以前少し触れましたが、中国等と違って米国に配慮するあまり、日本は円高の牽制に常に控えめで淡白だったと思うのです。その結果、世界の金融市場は安心して、対円に対してドルやユウロを売り続け、あっと言うまに円の最高値を更新してしまいました。今は、其の水準が常態化しようとしています。
 欧州を中心にした域内国家の財政不安から、急速に新興国に流れていた投資資金が、今、逆流している状況を見るにつけて、急速な自国通貨安も大きな問題ですが、米国や中国、韓国も自国通貨を継続的に金融市場に放出し続け、景気循環の資金提供に対応してきました。この事で、結果的に自国通貨安を容認して来たのです。日本は、為替に関する内外の金融政策で、完全に間違いを犯して来たのではないでしょうか。
 我が国は、今、過去に経験した事の無い円高に見舞われています。輸出を中心とする国内企業は、世界の市場で価格競争力を大きく損う結果となっているのです。この様な、未曾有の円高状況だからこそ、できるのが日本銀行による円資金の放出ではないでしょうか。
 東日本大震災の復興資金に大量の復興国債を発行し、市中から日銀が買い入れる方策は、禁じ手なのでしょうか。為替介入後の非不胎化による、一時的な資金量の増加では無く、はっきり、復興の為の資金を国内に還流させる方法は、私個人として、理論的確信は持ち合わせませんが、今を置いてないのでは無いかと思うのです。
 今回の第3次補正予算について、政府が発行する復興国債について、基本10年の償還としており、その資金の回収の為に、様々な増税案が検討されているようです。野党との交渉で民主党は償還期限を15年まで延長するとの妥協案も示されていますが、現状の国内景気の推移と世界経済の動向を慎重に見極め、償還期限についても、規定的に考えないほうがいいのではないかと思うのです。
 今の政府の当面の課題が、東日本大震災の復旧、復興と原発事故の終息、及び国内景気を下振れさせかね無い、急激な円高対策で有る事は論を待ちません。

2011年10月18日火曜日

川西の黒川ダリヤ園

 朝起きて外を見ると、真っ青な空が広がっていた。昨日から、天気予報は晴天を告げていたが、少し、ひんやりして絶好の行楽日和だ。
 早速、奥さんをせかせて、お昼の弁当の支度をさせた。以前から、付近の地図を見ていて、川西の奥に黒川と言う地域があり、そこにはキャンプ場などがあって、其のそばには「黒川ダリヤ園」と言う入場無料の施設があるのを知っていた。
 何時も、能勢の「栗の里」と言う道の駅に行く時に、能勢街道の最初のトンネルを抜け、其の先の信号を右折すると、すぐトンネルに入る。其の先、知明湖と言う湖沿いにどんどん進むと、チェリーGCと言うゴルフ場の入り口が見えて来る。そこを通り過ぎて、次の道を右に入って行くと、そこが、「日本一の里山」と言われ、「日本の里百選」に選ばれた川西の黒川地区になる。
 川西の北部に知明湖と言うアルファベットのYのじをした湖があり、そこは猪名川の上流で一庫と言う名称のダムもあり、其こ一帯は県立の一庫公園と言われている所だ。
 家から、1時間弱で目的地に着いた。川西市の運営で平成9年11月に開園した施設だそうだ。現地は、里山の風情そのもので、0.4ヘクタールに350種、1300株のダリヤが植えられているとの事で、平日にもかかわらず、ご婦人達のグループや、シニヤのカップル、一眼レフを構えるカメラマン達が訪れていた。
 園の入り口で、いつものようにアンディーはお断りと告げられたが、ペットのゲージを持参してきており、何とかパスさせてもらった。
 私は、一通り、今を盛りに咲き誇っているダリヤを写真に収めた。奥の休憩所で昼食の弁当も食べる事が出来た。
 園の協賛金に500円を提供すると、一袋のダリヤの種をくれた。5月の連休明けに種をまけば良いとのことだ。家内は、実家の母に持っていくと言って、もう一袋頂いた。ダリヤの花は、夫々とても立派な花をつけており、花を観賞する人に混じって、何人かの職員と思われる男性が花の手入を行なっていた。
 そこで、1時間ほどを過した。帰りは477号を園部方面に走って、ぐるっと篠山、三田を回り、いつもの県立有馬富士公園を通って、帰宅した。涼しい秋の郊外の100キロ近いドライブだった。

2011年10月15日土曜日

千里のゴルフ練習場

   去年の秋頃は、72キロほどに体重を維持していたが、特に今年の夏、山歩きやゴルフの練習場通いをサボってしまった付が、一気に表面化してきた。春までは、奥さんもアンディーと一緒に自宅から坂道を下って折り返してくる毎日の散歩に付き合ってくれたが、夏場の日差しがきつくなって、さすがに遠慮すると言い出して、私も朝が比較的遅く、日課を崩してしまった。
 去年、ユニクロでカジュアルのズボンを、3着まとめ買いしたりしていたが、全部きつくなって履けなくなっている。今年の夏は、ウエストのゆるい半ズボンで通してしまっていた。現在の体重は76キロオーバー。特に腹回りが目立って出てきた。
 夏場の暑い時期、オーディオのアナログプレーヤー復活などもあって、自宅に篭ってレコードやCDを聴いている時間が多かったのも事実だ。
 そんな調子だから、当然、ゴルフの練習もほとんど行かず、コースに出るのもぶっけ本番と言う事が続いた。「スポーツ事は練習に比例する」と言う法則からすれば、毎回いい結果が出るはずも無かった。
 此のままではいけないと決意して、今週から減量作戦を行動に移した。週初めから、朝晩の腹筋30回を日課にして、一日おきにゴルフ練習場のヒッコリーに通い始めた。
 さすがに、腹筋30回は20回過ぎからとてもきつくなる。ヒッコリーもアイアン中心に、毎回1時間20分で300球は打っている。
 今日は、久しぶりに千里ニュータウンゴルフガーデン迄足を伸ばした。
ヒッコリーは、60ヤードほどの距離しかなく、玉の行方を確認できないが、千里のゴルフ練習場は250ヤードの距離があって、ドライバーの方向も充分確認出来る。私は、阪神淡路大震災の翌年の平成8年夏まで、この練習場へ車で5分と掛からない上新田と言う所に、14年住んでいた。
 昭和48年頃からこの練習場をメインにして、土日のゴルフの予定が無いときは必ずと言っていいほど、練習に通っていた所だ。
 今の住所に変わって15年が立つが、まだ当時からの受付の女性などもいて、顔を見合わせると、お互いに30年の歳月が感じられ、なんだか恥ずかしい。
 宝塚から30分の距離は、練習場としては遠く、慣れ親しんだ所ではあったが、段々に足が遠のいていた。今のメインの練習場はヒッコリーで、時には千里まで足を運ぼうと思い直している。
 ちなみに、腹回りは少し硬くなってきたが、まだ体重の変化は出ていない。
体重コントロールと足腰の強化に取り掛かった一週間に成った。
 

2011年10月13日木曜日

滑り止めのカーペット

   昨日は、近くの絨緞・カーペットの店を周って、居間のフローリングに敷くカーペットを買いに行った。玄関からリビング迄の物は、以前、年老いたリズのために購入していたものを奥さんが出してきたが、リビングには二枚あったアクセントラグを敷き詰めた。後は、居間の入り口から和室の所までと、アンディーが、水を飲んだり、食事をするキッチンの場所迄のスペースが必要になった。
 始めは、カーテン、カーペットの専門店に見に行こうと考えていたが、丁度、いつも通る川西阪急のそばに個人の小さなカーテン屋があるのを奥さんが覚えていて、ちょっと、覗いて行かない!と言うので立ち寄った所、とても手触りが良くて、色合いも悪くない出来合いのカーペットが置いてあった。
 大きなサイズから切り出した残りを加工したものだとのことで、値段も格安になっていた。とても、お買い得ですよ、と言う人のよさそうな店主の勧めで、そこにあった、二枚のサイズ違いを購入して帰った。
 サイズを測ってオーダーすると、価格もソコソコするし時間もかかるので、出来合いを工夫して敷けば、一石二鳥と、その日に担いで帰ったのだ。
 アンディーの足はもう治らないかもしれない。ネットで犬の足の障害を調べてみると、ヨークシャーテリアやチワワ、マルチーズなどトイ種といわれる小型犬に良く見られるのが、膝蓋骨脱臼(シツガイコツダッキュウ)と言って、靭帯が破れて膝のお皿が膝関節から外れてしまう障害なのだそうだ。その上、ソファーから飛び降りた時に腰の脊椎に衝撃を受けたのかも知れない。
 ネットで調べて見ても、安静にして極力足に負担が掛からないようにして、様子を見るしかしょうがないようだ。
 それでも、ゆっくり立ち上がって洗面所のおしっこ用のシートまで歩いて行くし、水を飲みにキッチン迄歩いて行く。
 私が、出かける素振りでもすると、大変で、私の後を追っかけようとして両膝を付いてしまう。それでも、前足と膝で前進しようとするのです。
 アンディーが動ける範囲に、滑り止めのカーペットとアクセントラグを敷き詰めたので、少しは歩き安くなったと思う。もう、大きな移動は抱っこしかなく、アンディー自体もそれが普通の感覚になりつつある。5年前に亡くなったリズは、抱えられるといつも、もがいて降ろしてもらいたがったが、犬でも夫々個性があるのを、思い出します。 

2011年10月10日月曜日

お婆さんの里帰り

 秋に気候がよくなったら田舎に行こうね、と家内がお婆さんに話していた。
89歳のお婆さんが何時だったか、夢の中に自分の母親が出て来て一緒に墓参りに誘われた夢を見てから、田舎の墓参りに行きたいと、しきりに言うようになった。
 母の出身は、昔の京都府船井郡広野と言う所で、現在は船井郡京丹波町広野になっている。亡くなった義父の出身は、この京丹波町和知からまだ北の由良川の上流に入っていった細谷と言う山の中だそうだが、今はガラス工芸家が工房として使っているとの事だ。母の実家は江戸時代に建った大きな屋敷の古民家で、最近、役場の仲介で名古屋の中年夫婦が買い取り、移り住んでいると言う。
 朝、9時に宇治の実家に母を迎えに行き、近くの菓子屋で手土産を買って、京都桂の先の沓掛ICから京都縦貫道に乗った。3連休の中日だった為、宇治から沓掛まで40分近く要し、高速は、終点の丹波ICまで25分と、比較的スムーズだった。終点から9号線で京丹波町を目指す。途中から由良川に沿って走る27号線で和知方面に入り、予め、お婆さんの姉の実家がある下山の甥に電話を入れて、案内を頼んでいた。
 家内の親戚筋と言う事で、私は、冠婚葬祭で顔を合わせているのだが、それも家内の父の葬儀以来で、ほとんど初対面の状態だ。
 亡くなったお婆さんのお姉さんは7回忌を済ませたとの事で、その長男の人は、私と同い年だった。この人の案内で、母のお姉さんの墓参りを済ませ、次に、いよいよ、お婆さんの実家の墓参りに向かった。いずれの墓地も里山の坂を上がっていく所で、母だけ、案内の甥が軽トラックに載せて近くまで運んだ。
 私達は、墓地の下に車を止めて、山道を墓地まで歩く様な所だ。
田舎の墓地は、いずれの墓地も立派で、敷地も広く、同じ姓の墓石が並んでいて、親戚や家族のお墓が並んでいる様子が伺えた。
 お墓参りを済ませてから、実家を継いでいる本庄の長男の所に挨拶に向かった。
その長男の奥さんが病気で自宅療養中の為、その見舞いも兼ねていた。
 お婆さんも、田舎の風を吸い込んで、若かった頃を思い出したのか、少し興奮気味に、あたりの風景をしきりに懐かしがっていた。
 休日と言う事もあり、自転車でツーリングをするグループや、モーターバイクの集団などが行きかい、のどかなはずの田舎道が結構の交通量に驚いた。
和知の道の駅などは、休日と言う事もあっ満員状態の盛況で、私としてはもう少し田舎の雰囲気を期待していたのだが、それとは少し違っていた。
 由良川に沿って走る27号線沿いも、バイパスが整備されていて、古い民家も多く見かけるが、昔の里山の情景は薄れているのかも知れないと思った。
 久しぶりの里帰りになったお婆さんが、帰り着くまで、以外に元気だったのも安心した。又、連れて行ってね!と言うお婆さんに頷いて、日暮れ前には宇治の実家に帰り着いた。

2011年10月8日土曜日

腰を痛めたアンディー

   アンディーの状況が芳しくない。一昨日、ちょっと目を離した隙に、ソファーから、クッションを置いていないリビングのフローリングに直接飛び降りた。アッ、と思ったが後の祭りで、足を痛めていなければ良いがと思ったが、案の定、心配が現実のものになった。私達が、居間でテレビなど見ていると、いつもソファーに上がりたがる。私の前に来て、背中を向けて上げてくれと言うポーズをするのだ。いっもは、クッションを二段重ねにして、下りてもいいように置いていたのだが、その日に限って忘れていた。
 自然脱臼していると言われていた両方の後ろ足が悪化して、歩くのに力が入っていないようで、足がもつれて尻もちをつくようになった。それでも、一生懸命歩こうとする。ただでも、前足首の関節は受け皿が磨り減っていて足先に力が伝わっていないようだ。
 水を飲んだ時の、気管支に水が入って咽るような仕草も改善されていない。
クリニックで処方されていた抗生物質が切れたので、相談がてら半蔵動物病院を訪ねた。
 まず、後ろ足の件は、やはり飛び降りた時の衝撃で脊椎を痛めている可能性があるとの事だ。レントゲンで見ても、神経の事は分らないので、極力安静にして様子を見ようと言う事になった。人でもぎっくり腰を起こしたり、使い痛みは、暫く安静にする以外無いのと同じだと、説明があった。
 水を飲んで咽る件は、先生からアドバイスされた、水に片栗粉か何かを混ぜてとろみを付けて与える方法を試してみた。最初は、いつもの水ではないと、嫌がったが、それでも水飲みの容器をそのままにしておくと、諦めて飲みだした。
 言われた通り、効果が出て咽るような咳が少しは治まった。抗生物質の効果があまり認められ無かったので、今度は、抗生物質の代わりに、前回止めていた消炎剤を極少量ずつ5日ほど与えてみようと言う事になって、先生も試行錯誤で試して見るしか無い様だ。私はこの時点で、この医師は信頼できると判断していて、全てを、彼の判断に任せた。
 一時より、食欲は戻ってきており、家内が鳥のレバーをボイルして与えた所、喜んで食べるからと連日与えていたが、先生に、薬を飲みだした頃からアンディーのウンコが黒く成りました、と話すと食事に与えていたレバーが原因だったらしく、レバーは血液の固まりだから、それを多く取ると便は黒くなりますよ、と説明された。
 体重3.2キロ、内臓には、今の所異常が無いが、ちょっとした移動もほとんど抱っこ状態になる。先生は、とは言っても10歳半で高齢犬の部類に成っているので、と私達を慰めるように話された。
 半蔵動物病院は、いつもガーデニングの花を見に行く、あいあいパークのすぐ先にあり、帰りは始まったばかりの秋の植木祭を覗いて、ビオラとアメジストセージを買って帰った。
 

2011年10月7日金曜日

丹波篠山へドライブ

   去年も、この時期篠山方面にドライブに出かけたのを思い出して、裏山の長尾山トンネルを抜けて、三田方面に車を走らせた。ウェークデーと言う事もあって、途中の有馬富士公園も人影は少なく、新三田駅の手前を176号に沿って篠山に向かった。篠山に近づくに連れて、沿道でこの地方特産の黒大豆枝豆を売っているのを見かける。一束700円が相場らしい。
 篠山市に入り、城跡周辺の大きな駐車場に車を止めて、公園のベンチで散らし寿司の弁当をほうばった。晴れていて日差しがあるが風は心地いい。
 食事を済ませて、おもむろに、篠山市役所の裏手に連なる商店街に向かった。
市役所の横には、篠山田園ホールと、その向かいには旧篠山藩役所跡と言う、ほぼ字が消えかかった表札の古い門が立っていて、その置くには、昔よくあった、田舎の小学校の木造校舎を思わせる建物が残されている。
 少し歩くと、今度は大正ロマン館と言う建物があって、昔の役場があった所らしく、今は篠山市の物産館になっているようだ。
 奥さんが、中で土産物を見ている間、私はアンディーを連れて、中庭のオープンカフェでコーヒーを頂いた。
 この、大正ロマン館と言う建物のあたりから、飲食店や篠山の枝豆、季節の栗などを並べた店などが並び、観光に訪れている人たちも増えてきた。
 私達は、通りのはずれまで歩き、栗を販売している小さな店先で、焼き栗の試食を頂き、そこで、一袋1.200円の銀よせと言う栗を土産に買い込んだ。
 篠山の城跡には入らなかったが、団体客などは、駐車場から城跡に登って見学するのがお決まりのコースのようだ。
 徳川家康の命で築城され、松平家に続き家康の早くからの臣下であった青山氏が城主としてこの地を治めたとの記述がある。ちなみに、東京の青山はこの青山家の江戸屋敷が有ったところから、その地名が付いたらしい。
 篠山市内にも、この青山と言う地名があちこちに残っていて、近くには、青山ゴルフ倶楽部や青山台ゴルフクラブと言う名前のゴルフ場もあったりする。
 多紀郡篠山町に近隣の多紀町、今田町、西紀町の4町が平成に入って合併して人口5万弱の市に成ったとのことですが、これからの冬場にかけて、猪の牡丹鍋などもこの地の名物になっています。酒飲みの友人などは「牡丹鍋を食べに行こう」と以前から声が掛かりますが、まだ実現していません。
 昨日は、物産館の栗饅頭に、特産の生の栗を仕入れて帰りました。