2011年9月29日木曜日

秋の季節が始まった

   先日、初めて行った半蔵動物病院で処方してもらったアンディーの飲み薬が無くなった。10日間、抗生物質と消炎剤を飲んでみて、様子を見ようと言う事になっていた。電話で話すと、抗生剤だけ、もう一週間続けてみましょうと、言う事になって、今朝、薬を貰いに行った。空気は少し涼しいが、秋晴れの空だ。
 あまり天気がいいので、帰りは能勢町の道の駅まで足を伸ばしてみようと、車を走らせた。川西市街から173号線(能勢街道)を北に走り、一庫ダムを横目にトンネルを4~5つ越えると、そこは能勢町で、すぐに「栗の里」と言う道の駅が有る。
 いつも、この時期この栗の里という道の駅に来て、栗や地域の野菜を仕入れて帰る。今日も大小の栗が混ざって入ったものを一袋と、能勢の米3キロを買って帰った。お米も、三田米や能勢の米と言って売っているものは、如何いう分けか美味しく感じる。たぶん、街中で買うお米と違って多種類のものが混ざっていないので美味しいのかもしれないと、話しながら帰った。
 この所、少し涼しくはなったが、やはり正午頃になると、まだ気温は26度ほどに上がって、日差しを暑く感じる。
 自宅に帰って窓を開け放つと、勝手口から金木犀の匂いが入って来た。2~3日前、家内が金木犀にいっぱい青い蕾がついていると言っていたが、今日、匂いにつられてベランダに出てみると、ベランダ越しの大きな金木犀の木にいっぱいの黄色い花がついていた。道理でいい匂いがするわけで、もう、そんな季節かと、あらためて季節の変化を実感した次第だ。

2011年9月28日水曜日

山歩きの再開


 大気が秋の空気に入れ替わって、ようやく、夕方の散歩を再開した。冬の間、自宅の有る高台から、阪急電車の通る近くまで降りていた。ゆっくり、ゆっくり歩を進めて歩いたが、夏の間歩くのを休んでいたつけが、てきめんに出ていた。
 まず、家内も私も坂を下りる際に膝の関節に負担を覚えた。平坦な雲雀の公園から急坂の脇道を降りると、少し近道になるが、足元に気を付けなければならない。坂道から覗く下界は、まだ夕日で明るく、カメラの望遠ズームで見ると、大阪空港の滑走路のはるか前方の生駒山のふもとまで見通せる。
 下まで降りて登りに入ると、やはり以前より随分きつい。
二人とも、所々で休みながら、ゆっくり上り道を歩いたが、じわーっと汗ばんでくる。この夏場に二人で無理は出来ないと登り下りの散歩を控えたが、こんなにきつく感じるとは思わなかった。やはり、毎日続ける事の大切さを思い知った。

 一度、動く事を止めると、それが全てに影響するようで、一日、家の中で座り込んでしまったり、日々のちょっとした行動が億劫になるのかも知れない。
私の事で言えば、この夏で体重が確実に3キロ増えた。どういう分けか食事が進む事も影響しているのかも知れない。やはり、その分運動量を増やさないと、と思っている。アンディーを抱えてせっせと歩かなければ!

2011年9月26日月曜日

お彼岸のお萩

 「お彼岸だから、お萩を食べようか」と実家の近くのスイーツの店に出かけた。そのお店は、シャトレーゼと言うしゃれた洋風の店で、ケーキが主体の店だと思うのだが、和菓子も色々並べていて、季節を思わせる栗を使った和菓子や、私が好む小振りの田舎饅頭などが並んでいる。
 私達は、メインのお萩を買って帰ったが、如何して、お彼岸の時期にお萩なのかと、ふと思った。大体、内の奥さんは、昔からあんこの和菓子が好物で、それも粒あんにこだわっている。言っておくと、ここでも私とは趣向が違っていて、私はどちらかと言うと、こしあんを好む。伊勢の赤福や広島のもみじ饅頭など、こしあんの和菓子が良い。
 実家から帰って、如何してお彼岸にお萩なのか、と言う疑問を調べてみた。ある、和菓子屋のサイトに、その疑問に答える説明書きがあって、江戸時代から春の彼岸には牡丹餅を、秋の彼岸にはお萩を神仏にお供えする風習が定着していたと、書いてあった。そして、この牡丹餅とお萩は一緒のもので、今日では年中お萩の名称が定着しているとの事であった。
 そして、秋は大豆の収穫期に当たり、豆の皮も柔らかいためそのまま粒あんとして使われ、年を越した春の時期には、皮が硬くなっている為、皮を除いたこしあんが使われたのだと言う。そのため、秋のお彼岸のお萩は粒あんと言う事になるらしい。
 大阪近辺では、「丹波家のお萩」が良く耳にする店で、他に私達が良く立ち寄る、「さざえの十勝お萩」と言う店がある。
 このさざえ本店と言う店は、171号線を神戸に向かって、武庫川大橋を渡ってすぐの所にあり、ここは、和菓子をメーンにしているお店なのだが、反対に洋菓子も充実した品揃えだ。又、この店の奥には、「我が家」という和食のスペースが設けられていて、リーズナブルなお値段で美味しい食事もいただけるお勧めの店になっていて、いつも家族連れや若者、女性客で賑わっている。
 ここのお萩が、奥さんの好みで、西宮方面に出向いた帰りには、必ず立ち寄ってお萩や和菓子を買って帰る事にしている。ちょっとした、彼岸のお萩の話です。
 

2011年9月24日土曜日

八重咲きアスター

   明日、宇治の母を訪ねる前に、花を買って持っていってやりたいと、山本のフラワーパークを訪れた。敬老の日が、丁度、私が役を仰せつかっている近くの大学祭の行事参加で、母を訪ねる事が出来なかった為、母の顔を見に行くのが、明日になってしまった。
 母も、週3日、大好きなデイサービスがあるので、その合間を縫っての訪問である。母の予定の無い日に、近くにいる姉が訪ねてくれていて、その為、私達の出番はいつも日曜日に訪問する事になる。
 フラワーパークに行く前に、久しぶりに、リズが眠る宝塚動物霊園と清荒神最澄寺にも立ち寄ってお参りをした。
 動物霊園と清荒神は、宝塚劇場前の交差点を山側に10分ほど上がって行った所にあり、宝塚市内から西宮の兜山方面が見渡せる動物霊園からは、清荒神まで車で5分とすぐ近くなので、アンディーの散歩がてらいつも立ち寄ることにしているのだ。
 家を出たときの外気は20度を少し下回っていたが、フラワーパークに来た時には、25度と日差しと共に少し暑さを感じる好天で、体調が心配されたアンディーも
元気について来た。
 夏の暑さや、長雨で足が遠のいていたが、フラワーパークもガーデニングの花を求める人出が見られ、世間は行楽の3連休で、中国道も30キロの渋滞が報じられていた。近場で楽しめれば、それに越した事は無い。

2011年9月23日金曜日

秋のお彼岸

   台風一過と言っても、まだ、曇り空が取れない。昨日は、彼岸の中日を待たず寝屋川市の実家の墓参りに出かけた。一般道は混んでいたが、霊園はお墓参りの人影もまばらだった。四五日前に妹達が先にお参りに来ていて、花もまだ綺麗なままだったが、新しい花を買っていったので、榊を外して新しい花と合わせた。
 さすがに、台風が行ってしまって空気が入れ替わったのか、一気に涼しくなり、秋の到来を思わせる天気だった。
 寝屋川の香里園に実家があり、昭和の54年、父が亡くなった時、私は転勤で四国に勤務していた為、実家にいた母と下の妹がこの寝屋川市の霊園を選んで、お墓を造ってくれた。この霊園は、あれから随分大きく立派になった。
 私達は香里園に住んでいたが、元々香里園という土地に何のゆかりも無く、私は、当初、八幡の円福寺のそばの霊園でもと、ちょっと思ったが、母や妹達が選んだ場所に特に異論を挟まなかった。と言うのは、まだ香里園に住んでいる母や妹の住まいから、比較的近いのが良いかも知れないと考えたからだ。
 寝屋川霊園の裏側は香里園の三井団地があり、近くに、交通安全の祈祷を受ける、成田山もある。その後、上の妹家族も泉南の方から、三井団地に越してきた。
 私が転勤で四国を出た時、一時的に、この妹の手配で三井団地に引っ越してきて、兄弟姉妹全部が香里園に住んだ事もあった事を思い出す。
 今から思うと、子煩悩だった父が皆を呼び集めたのかも知れない。父の逝ったあと、10年近くを香里園で生活した母も、このお墓に入った。
 母が亡くなって、早、四半世紀が立とうとしている今、兄弟姉妹は千里界隈に住んでいて、少し遠い私でも皆が集まるのに30分と掛からない。
 毎月のお参りを続けてくれている妹のおかげで、何時行っても実家のお墓は綺麗に保たれていて気持ちが良い。
 

2011年9月20日火曜日

ささやかなオーディオ環境

   私のオーディオ環境は、長方形の14畳ほどのリビングの奥に、左右の壁面から約40cmずつ、奥行きも40cm強空間を取って、スピーカーを配置している。
 天井は比較的高く、1.1メートルあるスピーカーから、上に1.4メートルの空間がある。14畳のリビングに、6畳の和室が続いているので、オーディオを聴く空間としては20畳ほどか。そこに、ディナウディオ コンター3が置かれている。
 両方の、スピーカーの後ろに壁コンセントがあり、その壁質は石膏ボードと思われる。両方の壁コンセントを米国のワッターゲートのオーディオ用コンセントに取替え、コンセント周りの15センチ四方に鉛のボードを張って補強してある。コンセントのカバーはアコースティックリバイブのアルミのカバーに取り替えた。
 主電源は、右のコンセントからオルトフォンの木質タッブまで、シナジスティック・リサーチのリゾリューション・リファレンスACマスターカプラーと言う電源ケーブルで繋いでおり、そのオルトフォンのタッブから、アキュフェーズのパワーアンプA-30とプリアンプのC-2400に先ほどと同じ、リゾリューション・リファレンスACが2本使われている。そして、左のコンセントからは、同じくシナジーのリファレンス・ACマスターカプラーと言うリゾリューションの下のクラスの電源ケーブルを入れている。色々試してみたが、私のCDプレーヤー、メロディアン588にはこのケーブルのほうが、相性がいいように思えた。
 電源ケーブルも、最初はワイヤーワールドやサエクが輸入しているキャメロット等、色々試してみたが、このシナジスティック・リサーチに出会って、此れにはまってしまった。当時は、このシナジスティク・リサーチの代理店をしていた、吹田市のヒノ・エンタプライズ社からそのほとんどを譲ってもらった。
 この、ヒノ・エンタープライズ社はシナジスティック以外にもPAD(ピューリスト・オーディオ・デザイン)と言う米国の高級ケーブルメーカーの代理店も努めていたが、今はその両方とも他社に譲っているようだ。
 当時、ヒノ・エンタープライズ社の好意だと、私は感じているのだが、インターコネクトケーブルで、カレードスコープ・フェイズⅡルッキングラスというRCAや同じくカレードスコープ・フェイズⅡのバランスケーブルを格安で提供してくれた。
 背景には通産省の規制で電安法が施工される事になり、多くの輸入ケーブルが
差し止められて、以降日本の販売店で購入する事が出来なくなったのです。
 このような、趣味の世界に国が関与すると言うのも、全く理解が出来ません。
その、市場規模からして、国内産業を保護すると言うメリットも無いと思われるからです。
 ここに、アナログ再生の為のフォノイコライザーにさすケーブルにカルダスのゴールデンクロスRCAが加わりました。
最近は、この新しく私のシステムに加わったカルダスを、色々繋ぎ変えてはその試聴に時間を割いています。

2011年9月19日月曜日

地域の大学祭

  私が住む地域に、宝塚大学と言う学校がある。以前は、宝塚造形芸術大学と言う名称の大学だったが、この所、総合大学に衣替えして、随分学生も増えた。この大学が私が所属するつつじヶ丘自治会に、年間5万円の会費を払ってくれているらしい。その為、例年、秋の学園祭に自治会のブースを設けて、水槽ゲームを出展している。私が住むつつじヶ丘地域は、背後の長尾山系の南斜面にあって、そこに、宝塚大学のキャンパスが立てられており、大学のキャンパスは広いスペースは無いが、大阪平野を見渡す眺望は、素晴らしいロケーションに有る。
 今年、私は自治会の役を仰せつかっており、今回の学園祭の世話役も割り振られていて、朝、10時から12時半までと、昼からの15時から17時の間、ブースの店番の担当と言う事になっていた。
 朝は、アンディーを抱いて家内も見学についてきたが、登り坂をゆっくり歩いて、キャンパスに辿り着いた時には、うっすら、汗をかいていた。
 自治会のブースは、キャンパスの比較的奥にあって、正面に演奏の為のステージが設けられていた。そこでは、ヘビーメタルと言うかエレキギターをかき鳴らしドラムを叩きまくる演奏が行なわれており、耳が張り裂けんばかりの大音量に苦しめられた。さらに、私のブースの隣は、女子学生がチジミを焼いていて韮の匂いが苦手な私は、これにも閉口して、来店する子供の世話も満足に出来なかった。
 午前中、早めに失礼と、退散すると、昼過ぎから夕立が降り、風も出てきた為、急に涼しくなって、何とか午後からの役目を無事務め、店じまいをする事が出来たのです。

2011年9月18日日曜日

医者知らずのアンディー

   11歳半になっている、我が家のアンディーの体調が優れない。3~4ヶ月前から、水を飲むと、飲んだ水が気管に入った時に咽る様な仕草をするようになっていた。いつも予防注射などを受けに行く箕面の動物病院で、先月も見てもらったが、そこの獣医は動物に対して自然体で、ことさら過剰な治療をしない事を信条にしている医師で、後ろ足を触って、両膝のお皿が自然脱臼していると言う診断の他には、水を飲むときに咽るような仕草については、たまに、水を飲むのが下手な犬もいるんですと言う以外、特に何も説明がなかった。
 水を飲む度に、この苦しそうな仕草がだんだん強くなって、昨日は水を飲んだ後、夕方食べた食事を吐いてしまった。
 これは、もう様子を見ている場合ではないと、自宅近くの、比較的出来て新しい動物病院に連れて行った。私なりに、問診に備えて、ネットで症状を検索して予備知識を持って行ったが、その動物病院の先生は始めて来院した私達にとても細かく丁寧に診断を説明してくれた。
 まず、嚥下(えんげ)障害と言って飲食物を飲み込む事に問題があるのか、それも、咽頭部分に腫れや腫瘍などの問題があるのかを、段階的に検査して、処置を考えなければならないと説明してくれた。レントゲンの結果は、右の肺に誤嚥(ごえん)と言って、水や食物が間違って入り込んだ可能性が示された。しかし血液検査の状況は、幸い、ほとんどの検査項目で異常は見受けられないと言う。しかし心臓が、平均より一回り肥大している事と、多少なりとも、気管から肺に過去の誤嚥の可能性が伺われるので、まづは、抗生物質を10日ほど飲ませ、症状が改善しないようであれば、それから、喉の内視鏡検査を考えましょうと提案された。喉の奥を見ると言う事は、犬の場合、当然麻酔を施しての検査と言う事になる。
 今日は、6年前に12歳半で無くなったリズの命日になる。私の誕生日を待って、その翌日、外出先の車の中で心臓麻痺で亡くなった。
 リズは、まだ若い頃、乳房の癌と診断されて、その切除手術を二回も受けた。3キロに満たない小さな体で、麻酔を伴う手術は極力受けさせたく無いと思ったが、良性でも癌は切除したほうが良いと進められて、医師に任せた。おかげで、リズは12年半の寿命を全うし、あっけなくも綺麗な最後だったと思っている。
 医者知らずと思っていたアンディーが、いつの間にか10歳を越え、足元が覚束なく成っていた。特にショックだったのは、今日のレントゲンに、アンディーの前足が映っていて、間接の受け皿が摩耗でなく成っていると言われた事だった。
 普段から、あまり歩きたがらないはずだと思った。リズが逝った後、私達夫婦を慰めてくれたアンディーの、この先の頑張りを、支えていこうと思っている。

2011年9月17日土曜日

好きになれない政治家

 野田内閣に対する私の懸念が早々に現れた。鉢呂経済産業相の軽はずみな言動が、マスコミの格好の餌食になり、遭えなく、就任9日目の辞任に追いこまれてしまったからだ。長らく政治家として人生を生きて来た人でも、状況やその場の雰囲気に、とてもノー感な人がいることに驚く。今回の問題となった言動で、「死の町」と言う表現は、今の状況下、政治家が使う言葉としては、あまりにも、避難住民の心情を逆撫でする、それこそ、配慮を欠いた無神経な用語だと思うのです。さらに、本人は冗談のつもりで、原発視察後の記者懇談で、記者に擦り寄って「放射能がうっった」等の言葉や仕草をした事は、よほど世間に対する警戒感の無い人なのではないでしょうか。仲間内では特に問題にもされない事でも、自分の置かれた立場に対する確りした認識が無いと、こう言う事になってしまいがちですね。
 しかし、野田総理の人事で、鉢呂氏の後任に枝野元官房長官を入れたことを、私はとても理解出来ません。菅内閣での大震災、とりわけ原発事故に当初から関わって、今日、その情報隠蔽とも取られかね無い当初の対応で、今、放射能飛散による体内被曝や蓄産農家の問題が問題化している事への危機感が感じられないからなのです。別に野田内閣の肩を持つつもりはありませんが、この後、本国会に進み、3次補正や、さらなる震災、原発対応が検証がされる事になれば、当然、発生当時、内閣の要としてその地位にいた者が質問の矢面に立たされ、場合によっては一手に批判を浴びかね無いと思われるからです。適材と言うより、先を読む配慮を欠いた人事だとは思いませんか。国会のスムーズな与野党協議の進捗に妨げとならないかがし心配されます。
 ここで、話は違いますが、私は法律家をあまり信用していません。特に弁護士と言う仕事をしている人をあまり好きになれません。
 日本の法曹界は、戦後米国流の司法制度が一般的になり、裁判そのものが勝ち負けの世界になって今日に至っていると思うのですが、私が関わった2つ、3つの民事裁判では、原告側も被告側もほとんどが作文か脚本の世界でした。おおよそ、真実とはかけ離れた自分達に都合の良い、議論に終始していたのです。
 裁判とは、こんなものかと、がっかりしたものです。それ以来、自分の都合のいい主張に慣れた弁護士上がりの政治家への不審が強くなりました。
 特に、法律の条文は暗記したかもしれませんが、法律で取り扱うべき様々な事案については、ほとんどが、全くの素人と言って差し支えありません。
 その後、我が国では検察庁の大阪特捜部で信じられない不祥事が明らかになりました。日本の司法制度の危機が表面化したのです。
 そんな法曹界上がりの者達が、政治家としての中途半端なイデオロギーだけで、国民生活を仕切る事が出来るのでしょうか。ましてや、政策理念のばらばらな集団でまとまっていけるかに、本来、疑問を持っているのです。
 そうした理由で私は、先の枝野氏などは好きになれません。弁護士出身の全ての政治家が、そうだと言っている分けでは無いのですが、ほんとに、理路整然と真実とは違う(嘘を)主張をする事が出来るのが、弁護士だと思っているからです。
 特に、菅内閣当時の枝野官房長官を長とする内閣官房は原子力災害の発生で、真実の情報を伏せると言う、決定的な間違いを起こしたと思っています。そのことは、以後の国民への保障負担をより大きなものにし、何より国民の不信感を増幅させた張本人の一人だと思うからです。現在、その責任を問う声が高まっていないのが不思議ですが、後々、必ず問題化するものと思っています。

2011年9月16日金曜日

月に一度の病院通い

  朝8時に家を出て、家内が月に一度受診する、天王寺のNTT西日本大阪病院に向かった。9時の予約との事で、いつもより30分以上早く自宅を出た。今日は阪神高速の池田線は随分混んでいて、予定の9時には着きそうに無い。車は流れに任せるしかしょうがなく、車のラジオに耳を傾けていると、何のニュースだったか、もうちょっと注意していれば、と思われる事故の報道を耳にした。
 家内とその話になり、最近、全てに「気配り」の無さを感じる出来事が多くなっている事に話が及んだ。大体、気配りが出来ない、自分本位、もっと言えば自分勝手、は子供や若い人の特徴の様にしばしば語られるが、最近若者や子供だけに当てはまる悪癖では無い事に気が付く様に成った。
 そもそも、子供や若者にその傾向が顕著に見られると指摘する事は、自分達親の世代の責任で、言わば昭和生まれが老齢者の域になり、日本の世の中全体の傾向に成って来ているのかもしれないと思うのです。
 しかし、今回のような、自然災害が起こると、昔に比べてボランティアで被災地支援に向かう人たちも増えたし、義援金なども随分の金額が寄せられている。
 しかし、こうした目的がはっきりしていて、自分の貢献を意識できる事柄には、人々の関心や気使いが認められるのですが、何気ない日常はと言うと、これは又、別の話で、そう成ってい無い事に気が付くのです。
 何気ない普通の日常生活で、以前なら、当然意識された気使いや気配りが、無意識の中で抜け落ちている事に気が付きませんか。
 暇な老人がと思われるかも知れませんが、昭和生まれの私達が老齢域に達し、自分が発する何気ない言葉や行動が無意識の内に他人を傷つけていたり、ちょっとした「気配り」の無さが、取り返しの付かない事故やトラブルに繋がる事が増えわしないかと心配になるのです。
 差し障りがあってはと、あえて一般的な事柄で、夫婦の会話を伝えましたが、私自身、思い返すと、これらの事に思い当たる行動や言葉使いが有るのに気が付かされるのです。
 予約の時間に20分ほど遅れて、病院の玄関に奥さんを降ろして、私とアンディーは残暑の街中で散歩を開始した。勝山3丁目の角に、とても、感じのいい喫茶店が有って、中を覗くと、抱っこして頂ければ、と入るのを許されて私とアンディーは外の暑さから一息入れる事が出来ました。

2011年9月15日木曜日

実はアレルギー体質

   ゴルフ疲れで昨日は、一日中体がだるく、昼寝もしたが夕方までダラダラと過してしまった。以前は、こんな事は無く、納得がいかないと、翌日早々に、練習に行ったものだが、この頃はそうは行かない。知らず知らずに、昔の自分の体力とは違っている事をしみじみ感じさせられる。
 家内に「お父さん、今日も暑かったからスコアー、悪かったんでしょう!」と慰められると、余計にしょんぼりする。
 階段を踏み外して、踊り場まで転んで怪我をしてから7年以上、人間ドック以外に病院に行った事が無い。しかし、その時の右膝の怪我で蜂窩織炎 と言って右足の皮下に菌が入り足が腫れ上がって、長い間抗生物質の点滴に通った。
 私は、これも私の体のアレルギー体質高進に影響しているのではないかと考えている。昨日のように一日中炎天下にいると、直射日光と汗が反応して日焼けと同時に発疹が出る。これが、あとでとてもかゆくてたまらない。
 抗アレルギー薬を飲んで、皮膚科で貰った軟膏をつけているが、暫く、落ち着くまでかゆみが残るのだ。
 4年後には定年と言った頃、逆流性食道炎ではないかと、阪大で胃カメラを飲んだら、親指ほどの立派な胃潰瘍ですと言われた。胃の中の写真を見せられると、なるほど、それが写真に映っている。その時の、阪大から来ていた産業医に胃潰瘍の治療薬を飲む事と、出来れば、ピロリ菌を退治する薬を飲みませんかと進めらた。
 丁度その頃、ピロリ菌の治療薬が保険適用になったとかで、私も承諾して、その薬の投与を受け入れた。3~4ヶ月で胃潰瘍が治癒し、同時に検査ではピロリ菌も見受けられませんとの報告を受けたのです。
 しかし、このピロリ菌を退治する薬が、私の体質を決定的に変えた第一の原因ではないかと疑っている。その後、それまで、花粉など全く反応した事の無い私が、翌年の春先、鼻水を出していたのです。さらに、追い討ちをかけるように、その後、夏には時計に反応して、金属部分の触れる腕がマッカに腫れ上がったのです。
 それ以降、時計も出来なくなりました。金属アレルギーと言うより、接触アレルギーといったほうが言い様で、柔らかな綿の素材などは大丈夫なのだが、化繊やプラスティク素材などにも反応するようになりました。
 医者に尋ねると、ピロリ菌治療薬との因果関係は認められませんとの答えが返ってきたが、それでも私はピロリ菌治療薬の原因説を疑っている。
 大体、私がゴルフをする時は、綿の白手袋を両手にして、その上から両手にゴルフ手袋をすると言った具合で、男性としては、物々しいスタイルなのです。
そうした、アレルギー対策も慣れましたが、60年以上生きてきて、体質の変化と言う経験をしているのです。これが、体調の変化にならないよう気を付けて行かなければと思う、この頃です。

2011年9月13日火曜日

残暑のパインレークGC

   今朝は、6時半にN君とM君が私のマンションの駐車場に来た。今月は、久しぶりにパインレークGCでの研修会の順番になっていた。いつも、N君が私を、迎えに来てくれるが、今日は、N君がそれに便乗して、私の所の来客用の駐車スペースに車を入れ、M君の車に乗り込んだ。宝塚の長尾山トンネルを通って下道で、西脇に抜ける道が、私達のお決まりのコースに成って来た。
 今日も、朝が早い事もあるが、三人で世間話をしながら走ると、1時間ほどで、目的地のパインレークGCに到着した。
 昨夜も、暑さで中々寝付けなかったが、朝から晴れの天気で、昨日同様残暑がぶり返したような天気だ。
 マスター室で練習場の玉を借りるコインを2つ貰って、50球ほど軽く肩慣らしをして、OUTからスタートした。
 来る時から、何とか平静に周ろうと密かに心にきめ、1番スタートに望んだが、やはり、第1打は、無常にも、右フェアウェーのサイドバンカーに捕まった。フェアウェーの右バンカーからは、打ち上げを見て140ヤードぐらいだが、第2打はトップ気味に出すだけと成った。それでも、フェアウェー真ん中で50ヤードの急な打ち上げは残るものの、比較的イージーと思った。所が、スリーオンの好機に、サンドウェッジのショットは、ラフをくぐって、エッジに届かず、その淵に止まってしまった。そこから、スリーパットが待っていて、結局、出だしの1番パー4を7打叩いてしまった。
 パインレークGCのOUTスタートは、出だしのスリーホールをいかに、無難に通過するかでその日が決まるとも言われている。
 次の、比較的易しい、パースリーで1オン4パットが続いた。アーアー、今日もと思ったが、3番ハンデキャップ1番の難所でまずまずのティーショット、セカンドの打ち降ろしを、アプローチウェッジであえて刻んだ。そこから第3打をピン下3メートルにつけて、ワンパットのパーが来た。同伴のN君はこのハンデキャップ1番で早々に、バーディーで上がる。
 2番の4パットで吹っ切れたのか、自分でも何とかパットの感触が戻ってきた。
相変わらず、ドライバーショットが好調で、後は、ショートアイアンの距離感とアプローチに掛かっていると感じた。午前中は何とか粘って45点で上がったが、昼からのINではこらえ切れなかった。暑さもあったが、まさに練習不足と体力不足で56点と崩れ、今日も、あと少しのところで100点を切る事は無かった。
 しかし、ドライバーの感触と、パターの感じは随所に手ごたえが感じられて、後はイージーミスを気をつければ、何とかスコアーに成るかな!と言う感触を得た事が
今日の収穫と言う事にしておこう。 

2011年9月12日月曜日

実家の庭の草花

 車検整備の部品手当てに2~3日掛かるとの事で、車が帰ってきた。それならと、日曜日は宇治の実家を訪ねる事にした。朝からどんどん気温が上がって、まるで盛夏のような天気だ。
 着いたのは、11時前だったが実家の庭先は日当たりが良く、暑さで居れないぐらいだった。いつも、お婆さんが時間つぶしにいじっている草花を写真に取るのだが、庭の奥に面白い花があった。
 花と言うより、4~5枚の葉が出ていて、その葉の中ほどまで、朱の赤い色が付いている。花と言うより、葉の中ほどまで朱色に染まった葉っぱ、といった感じだ。これが、庭の奥にたくさん伸びていて、お婆さんのお気に入りらしい。
 アンディーを連れて、実家の横の神社にお参りしたり、歩いて行ける距離のマーケットに家内と買出しに出かけたりで午前中を過した。
 昼からも気温が高く、私とアンディーは、エヤコンの入った居間で充分昼寝をして体を休めた。
 お婆さんは、娘と話をして時間を過すだけで良いらしい。家内の作る食事が楽しみで、普段、食が細くなっていると言いながらも、夕食のポテトコロッケを平らげ、クリームスープに舌ずつみを打っていた。
 涼しくなったら、義母の実家が有る京都府の和知町に有る母の実家の墓参りに連れて行くことを約束して、夕食後に実家を後にした。
 帰ってから、気になっていた庭の面白い花の名前を調べたが、何処にも載っていない。お婆さんも、花屋さんで買った庭に植える花の苗に、その種が付いてきて、いつの間にか育ったのだと言う。
 帰り際に、種の付いたその花を小さなビンにさして持たせてくれたので、大切にベランダで育てたいと思っている。