2011年5月11日水曜日

国の責任とは

 東日本大震災はこれからの日本社会の行く末を、大きく変える契機となるのか。言わば、地震国の日本では、地震の発生は日常茶飯事であった。そのことが、かえって、人々の大津波からの避難が遅れた原因とも考えられる。M9にのぼる地震は日本でも今迄に経験した事のない大きな地震であったが、10メートルを越える津波が内陸深く襲うとは想像する事が出来なかったと思われる。
 この大津波は、太平洋岸の広い沿岸で多くの人命を奪う大災害となったが、もう一つ、この津波が日本のみならず、世界を震撼させる原子力事故を引き起こす結果となった。
 首都圏の電力を担う、福島第一原子力発電所の全ての原子炉に被害が及び、今も、深刻な状態が続いている。東京電力と国はアメリカやフランスの救援を仰ぎながら、今も、原子炉の被災状況の改善と安定に向けた懸命の作業を続けている。大津波で壊滅的な被害を蒙った沿岸の市町村の復旧作業も二ヶ月目を迎える事になり、福島第一原発の事故によって、避難を余儀なくされている地域の人々の、短時間の一時帰宅も始まった。
 その様な中、東京電力では、巨額に上る事が予想される原子力事故の被害賠償問題も大きくクローズアップされ、国への全面的な支援を申し出ている。又、国も、菅首相が賠償は一義的に東京電力が負うべきとしながらも、国策として推進してきた以上、国にも責任があることを認め、その支援に当たることを表明した。そして、同時に菅首相は、日本のこれからの原子力発電によるエネルギー政策を一旦白紙にもどして検討するとも述べている。
 私はこの度の震災が起こる迄、電力の供給について、夏場の省エネが言われる以外は、日常的に考えさせられる事も無かったし、その為、当然原子力発電所を抱える地域の状況についても、ほとんど無関心であった。東京電力と国の政治家や所管官庁である通産省の関わり等、いちいち調べなくとも、大体想像が付くと、たかを括っていたが、一国の総理大臣が今までの国策としての原子力発電事業に責任があると述べると言う事は、そこに、改めて如何いう責任があるのかを知りたくなった。そこで、まず日本の原子力発電が何時どのようにして始まったのかを、検索できる範囲で、私なりに調べてみようと思った。
 我が国への原子力の導入は、原爆投下によって終戦を迎えた1945年から、わずか10年後の1955年に原子力基本法が出来、1956年米国から導入した技術と貸与されたウランによって、茨城県東海村でその研究が始まった。ここでの研究が、その後の原子力の商用化や国産化、技術者の育成に大きく寄与したという。だが、日本の最初の商業原子炉は英国の技術で始まった。
 戦後の電力事情は、極めて悪く、経済の復興に取り組む過程で、国も電力会社も電力の増産に必死で取り組む過程で、原子力発電への期待が高まったと推察される。特に首都圏を抱える東京電力圏内は戦後の高度成長を迎えて、窒素酸化物の排出から火力発電所の建設への反発が強まり、電力の増産の為の新しい技術である原子力への挑戦が大きく迫られたのでは無いだろうか。
 東京電力圏内でいうと、原子力発電所の導入の為、福島県は県が用地の買収に動いたという。東電が自ら用地買収をし建設に至ったのは、新潟の柏崎、刈羽原発のみとのことであるが、それには、後に原子力発電所立地の地域自治体に対して国の補助金を法制化した田中首相などの名前も伝えられている。1973年、78年の石油危機をへて、石油火力が世界的に実質禁止の流れとなり、石炭、天然ガスと並んで原子力が重要な一つと位置づけられる様になった。
 日本の高度成長期から今日まで、日本経済の工業化とその飛躍的拡大を電力の増産が支えてきた事は紛れも無い事実である。しかし戦後、電力会社の地域独占と、国による自治体への補助金行政、それに、関連省庁と民間電力との二人三脚が、馴れ合いと供給を優先した検査の緩みを生んで来た、との指摘もされている。
 日本の電力事業は、国の支援もあって、戦後66年、拡大する産業と国民生活を支えてきた。ただ、官民の癒着からと思われる電力の自由化の遅れ等、日本の今後の社会を見通す時、新た方向性を議論する時期に来ているのかもしれない。
 ただ漠然と「国の責任」という言葉で、これ迄を一括りにするのでは無く、国の何処に責任があったのか、また、如何変えて行かなければならないかに付いて、幅広い議論が行なわれて方向付けされる事を望みたい。
 

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