2012年6月28日木曜日

野田政権の立ち位置は

 個人こじんの思考判断の基準が何処から来ているかについて、ちょっと考えてみました。人の考え方のベースには、やはり自己が寄って立つ立場の利害や損得に根ざしていると考えるのが、妥当ではないでしょうか。そこに社会正義や一般社会の倫理基準が出て来る余地は、あまり有りません。
そこには、実はそうした自己が基盤を置く状況によって、損得、若しくは利害についての最も合理的な判断が、自然に働くのではないかと考えられるのです。その損得や利害は、必ずしも普遍的な意味での社会倫理や正義、不正義と合致するとは限りません。
大抵の場合、ひとの思考や判断にはこうした「自己の寄って立つ立場」を中心にした損得や利害による動機に支えられていて、その人個人にとって、それが自分を満足させられるか否かに掛かっている事が多いと思われます。社会を構成する多くの人々のそうした個々の思考判断が、実は経済社会を動かす動機に成っていると思われます。しかし、経済社会を動かす人々の判断や行動が、実はその社会にとって合理的かどうかは、また別の問題だと考えられるのです。
では、経済社会とは別に、もっと広範な一般社会の枠組みについての判断基準については、何が求められるのでしょうか。
個々の個人が合理的と考える損得や利害の行動基準とは違って、もっと広範な社会の有り様を考えた時、そこには、又、別の基準が求められるのでは無いかと考えるのです。
社会全体の調和の為の判断がそこには必要に成のでは無いでしょうか。正にそうした状況下にこそ、一般社会の倫理基準や社会正義を実現する法律や、それを包括する政治の役割が有ると考えるのです。
前置きが長く成り過ぎましたが、私が考える前段の思考判断基準に照らして、ここ一連の日本政府の政策判断を視てみると、どうも口先に出て来る「国民の為」と言う文言に疑問を感じざる負えないのです。 
「社会保障、税の一体改革」と銘打った消費税増税法案の衆議院採決も、関西電力大飯原子力発電所の再稼働の政府決断も、その推進基準はすべての日本国民にとって、真に妥当で合理的な判断でなければ成らないと思うのです。ところが、その政治家の判断基準の殆んどが彼らが寄って立つ、つまりその政治家達を支援する比較的狭い範囲の、支持組織の利害や損得の基準に沿った判断であったとしたら同でしょうか。
今度の、消費税の増税の為の法案の衆議院通過で、民主党の支持母体である連合(日本労働者団体総連合会)の南雲弘行事務局長のコメントが出ています。「衆議院で可決されたが、与党内に大量の造反者が出た事は遺憾であり、参議院での早期の法案通過を期待する」と言うものです。54単産、680万人の組合員を抱える日本最大の労働組合の組織をして、広く一般国民に等しく課税される消費税の増税を、社会保証財源確保と言う名目から、一早く容認しているのです。
更に、経団連(日本経済団体連合会)の米倉弘昌会長の談話として、社会保障、税一体改革法案の衆議院採決を巡り、「与党内の造反は、政党政治をどう考えているのか、理解に苦しむ。常識を持って進めてもらいたい」と苦言を呈しています。又、関西電力大飯原発の再稼働に至っては、この経団連の強い再稼働の意志が経産省を通じて政府に伝えられている事を考えると、今、政府が、全てが国民の為として推し進めている政策の裏側がはっきり見えて来るような気がするのです。そこには、真正面から国民を見据えた政策が推し進められていると感じる事が出来ません。
つまり、野田政権の現在の取り組みは、増税法案の政策立案を財務省が主導し、従来からのの支持母体である連合のバックアップの下、経産省と一体をなす企業団体への最大限の配慮で推し進められているとしか思われないのです。こうした背景を考えると、現在停止中の全国の原発も、安全は確保されているとする政府のお墨付きを得て、次々に稼働されて行く事が既定路線に成っていると思われます。
今の野田政権は、政権と政党維持だけを最大の目的とした、極めて自己都合の政策遂行にしか見えないのです。国民の為としながら、政権交代前に掲げたマニュフェストをことごとく反故にして、その実は自らの支持母体や企業団体の意向を最大限に配慮しながら、政権維持に協力する官僚組織のシナリオに乗った政策遂行と断じても過言ではないと考えられるのですが、言い過ぎでしょうか。!

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