2012年3月15日木曜日

瀬戸内の過去の思い出

  新聞を眺めていると、三光汽船が私的整理へ、の記事が目に入って来ました。その瞬間、えー、と感じましたが、1985年に一度、 5200億もの負債を抱えて会社更生法の申請に追い込まれた海運会社だったからです。当時、衆議院議員で三木派の番頭格であり、神戸を地盤としていた河本敏夫氏が大株主に成っていて、河本敏夫衆議院議員の資金的なバックボーンの会社でも有りました。
東証一部の三光汽船株は、当初二桁の株価から(当時は、ほとんどの海運株が二桁)、第三者割当と公募増資を繰り返し、大相場で2.560円の最高値の株価を形成した会社として記憶しています。日本興業銀行から河本氏に請われて代表取締役を引き受けた岡庭博氏の手腕で、当時は飛ぶ鳥も落とすほどの勢いでありましたが、1985年、プラザ合意の一月前に、海運不況のあおりを受けて会社更生法の申請に追い込まれた。

当時、私は会社の転勤で、愛媛県の松山に赴任していた時期です。当時、四国に連絡橋など一本もなく、神戸から関西汽船の一等に乗り込んで四国に渡りましたが、私の当時の心境は、まるで島流しの様なものでした。海が荒れると、新聞なども一日遅れと言った具合で、何ともゆったりした6年半の思い出深い四国暮らしを経験しました。
当時、私は愛媛県の今治が担当地域の一つで、瀬戸内の海を横目で見ながら松山から今治によく通いました。その当時、今治に有った波止浜造船と言う造船会社の副社長と取引が有り、造船業界や海運業界の話をよく聴く事が出来ました。後に、この波止浜造船は対岸の広島にある常石造船と言う会社に合併されることに成るのですが、当時愛媛県で盤石の地盤を築いていた坪内寿夫氏率いる来島ドックグループなども、当時の日本債権銀行によって支援を受ける事と成るなど、2度のオイルショックを経て、戦後成長してきた造船業界の衰退が始まっていたのかも知れません。
当時から、松山沖には、売れずに係留された中型のタンカーが何艘も見受けられたのを記憶しています。瀬戸内の産業と言えば、やはり、当時、内航船の70%を占めると言われた海運業と、造船では無かったかと思うのです。その為、私は、当時三光汽船の動向には、ひときわ興味を持って見ていた。
後で調べると、三光汽船はその後、平成10年に更生手続きを完了して、中堅海運として業務を続けていましたが、今回、再び海運市況の悪化を受けて、23年3月期に141億の赤字を計上し、金融機関の援助を仰ぐ私的整理で再建を目指す事を決断したとの事なのです。
一度倒れ、長い年月をかけて一旦は再起しながら、再び私的整理に追い込まれるというのも、中々つらい状況かと思われますが、景気変動と企業の栄枯盛衰の一端が伺われ、過去の記憶がよみがえる出来事だした。


0 件のコメント:

コメントを投稿