2012年7月22日日曜日

友人の一周忌のお参り

去年の7月に9年間の闘病の末、68歳で亡くなった友人の一周忌のお参りに出かけた。奥さんは、私の家内と同窓同期で、夫婦で40年の付き合いに成る。
  長男の方に男の子の孫が有り、娘さんは父親に結婚相手を紹介して、去年の末、無事所帯を持った。
  夫の闘病を支えた奥さんは、闘病中から否応無しに夫の死を覚悟していた様で、納骨を終えた今は、淡々と日々を過ごしている様子が伺えて、ちょっと安心した。
  
  彼女は、若い頃から細身の可愛い京都美人で、お互いに所帯を持つ前から、カップルで良く行動を共にした。若かった私達は、祇園祭りが終わって海水浴シーズンともなれば、エヤコンなど入っていない車を連ねて、若狭の海まで走った思い出を今も忘れない。
若い頃からの知り合いと言うのは面白い。顔を見合わせて話をしている時は、お互いが自分の様子を窺う事が出来ない。私が心の中で、彼女の若かった時のイメージと今を比べるとき、彼女は彼女で髪が薄くなって、お腹を突き出した私を見て随分歳をとったものだと感じているに違いないと思った。
  お参りを済ませた後、実家の母親の所に向かったが、今年90歳を迎えた母は、父を亡くして、18年に成る。最近、長寿の高齢者が増え続けているが、男性で、比較的若く病で命を落とす例も周りに増えてきた様に思うのです。
  実家の母親と同じく、女性が元気でその余命が伸び続けるとすると、随分、高齢の女性が世の中に増える事に成るのかも知れないなどと思ってしまう。
  
  友人は先に逝って、私は、自分自身のこの先は成り行きに任せでいるが、自分の人生の終わり方について、少しは考えておく方が良いのかも知れないと思い出した。
  欲を出せば切が無い分けで、人として恥ずかしい事もして来なかった代わりに、世の中に何も貢献する事も出来なかった。
  家族を持って、次代に命を繋ぐ事が出来た事が、自分の人としての最低限の責任、と言う考えはだめだろうか。
  





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