梅雨の終わり掛けに、次々に梅雨前線がやってきて各地に大雨をもたらしています。
私は、子供の頃の記憶に、今も鮮明に残っている大水害の思い出があります。それは、昭和28年6月の梅雨時分の事で、私は当時9歳で小学校の3年生でした。
私達家族は戦後の引き上げ組で、その時、父方の郷里長崎から、父の仕事の関係で、熊本市内に移り住んでいました。記憶では、私の住まいの先に大きな川が流れていて、熊本のわらべ歌に‘‘あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ’’と歌われる歌詞には‘‘洗場山には狸がおってさ’’と続くのですが、そこには、洗場山では無く、大きな郵便局(熊本中央郵便局)の傍らに、古めかしい洗場橋と言う橋が有りました。それは熊本城の東側を、天然の堀として流れる白川に掛かる橋だったのです。私達家族は、その洗場橋に続く道路沿いをしばらく、西に行った先に住んでいました。
その時も今以上に梅雨の大雨が続いていて、白川の許容範囲を大きく超えて、川から水があふれ出したのです。事前に川の氾濫の情報を受けた父は、母や子供達を二階に上げ、畳を上げたり入り口の引き戸が水の勢いで剥がされない様に、さかさまに取り付けていたのを今も覚えています。二階から身を乗り出して外を見ていると、道の向こうから道路幅いっぱいに、黒い水が押し寄せて来るのが見えました。家の前は、見る見る間に褐色の濁流に飲み込まれたのです。
それが、千人もの人が無くなった、昭和28年の熊本の白川大水害と言われるもので、白川だけでなく、熊本県内を流れる川と言う川は、皆、氾濫して多くの犠牲者が出たのです。
水が引いて何日か後の事だったと思うのですが、父に付いて市内に出かけた時、私の目に、屋根の上に厚く積もった土砂や、水に溺れて亡くなった人を収容する白木の棺が、何段にも積み上げられているのを見た記憶を今でも忘れません。
私が住んでいた地域は、今改めて地図で見てみると、熊本城にも近く、子供の足でも中心街まで出るのにそれほど時間が掛からなかった様に思います。走って、市電で通う友達を追っかけたり、白川の東側にある花岡山公園や、水前寺公園に行った記憶も、今なお残っているのです。
梅雨の大雨で水かさが増し、テレビで警戒が続く熊本の白川の様子を見て 、子供の頃経験した熊本の大水害の記憶が蘇りました。
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