今日の、日経のグローバル・オピニオンと言うコラムで、米国のハーバード大学教授、マイケル・J・サンデル氏の投稿を読んだ。「市場第一主義と決別を」という見出しでそれは書かれていた。
過去30年、米国では行き過ぎた市場原理主義が社会を覆い、政治が正義や平等、家族、コミュニティーの存在意義を省みなくなった、と論じている。
日本でも、先の自民党小泉政権の折、規制緩和を推し進めるという大義で、全てに競争原理をあてはめ、日本にあった古い家族主義的経営から米国流の株主利益の最大化が指向された。元を辿れば、其のことが今日の行き過ぎた格差社会を生んでいるのではないかと思われるのです。
企業活動や政治の判断が社会の価値観を変えると言う事は、とても大変な事なのだと感じています。私も長いサラリーマン生活の中で、自分が所属する企業の社会的責任について、強く感じた時期がありました。バブルが崩壊したあの時から振り返ると20年近い月日が経って、社会は当時と比べて見ても、ととても混沌としているように私の目には映るのです。
サンデル教授は、経済成長だけで全ての問題が解決出来る分けでは無いにも関わらず、市場が正義や「共通善」まで定義できるかのような考えがまかり通っているとも述べています。「共通善」と言う言葉をあまり聞いたことが無いのですが、たぶん「公共の福祉や社会の普遍的な価値観」の様な概念で述べているのでは、と解釈しました。
そして、この市場原理主義に対抗する手段は、政治的議論を通じて、市場経済の道徳的限界を考えなければならないとして、そこに暮らす人々が確かな絆を感じ、相互に責任感を持てるような公共的な社会を創設することだと述べています。その事が社会の市場第一(原理)主義に対抗する手段であると規定しているのです。
ケインズの総需要管理的な政策を批判して、企業の役割は利益追求を通じて株主価値を最大化する事と、米国の経済学者ミルトン・フリードマンは説いているが、それだけが企業の目的ではなく、国家にしても企業の活動を奨励する究極の目的は、「共通善」に資する事だと述べている。
企業家の立場や政治家の立場を社会全体の立場、公共的福祉に対する社会的責任と言う、ある意味素朴な思考や判断に立つ事が出来れば、社会の価値観や有り様が、違った風に理解できて、行動のモチベーションに資するのかも知れないと考えるのです。
この企業の社会的責任に立脚して国や企業が判断すれば、今日の原子力に頼るエネルギー政策や若者を中心にした社会の格差や歪が、もっと良く理解できるのではないかと考えるのです。
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