2011年5月21日土曜日

「国民感情」

 最近、新聞紙面やTVニュースで何かあると「国民感情」と言う言葉がつかわれる。最近では、政府の枝野官房長官が、東京電力に融資している金融機関に対して、債権放棄を求める談話を発表したことだ。原発事故の被災者救済のため、「国民感情」からしてその債権放棄が求められるというものだ。
 どうも、管総理の浜岡原発の停止要請にしても、今回の枝野官房長官の発言にしても、にわかには理解できないような事が平気で語られて、そこには彼らの理屈に、この「国民感情」と言う言葉があるのではないかと思われる。
 と言うことは、今の政府の考え方が、あまりにも国民から如何思われているかと言う事に支配されていて、場合に寄れば、都合よく「国民感情」と言う言葉を利用しているようにさえ思えるのです。
しかし、冒頭の、金融機関に対する債権放棄の要請の論拠はどこにあるのだろうか。事故を起こした東京電力に事業資金を融資していた事が、債権放棄の理由付けになるのだろうか。政府の官房長官が公の記者会見の場で、このような私見を述べる事が、はたして正しい事なのだろうかと、疑問を呈したい。
 彼の頭の中には、過去のバブル期に高揚する不動産投資に過剰な融資を繰り返し、経営難に陥った金融機関のイメージがあるのではと思われるが、勝手に「国民感情」と言う言葉を使って正状な経済活動の金融循環メカニズムを萎縮させかねない発言は、立場をわきまえない、大変思い上がった考えで、政府の中枢にいる人間として、全く認められない。
 彼は、官房長官就任の記者会見で、最も若い官房長官であるが、永田町で16年、政治に関わってきたと強調していたが、こんな政治家を16年も政界で食わせてきた国民としては、とても恥ずかしい事ではないだろうか。いったい16年も野党で何をしてきたのだろうと考えざる負えない。
 又、経済界や金融界も、思い上がった政治家の間違った考え方には、即、強い抗議をすべきで
債権放棄は頭に無い等と、口の中で、もごもご言っているような場合ではないはずだ。
 国会審議を見ていて、菅首相の浜岡原発停止要請にしても国民受けを狙ったパホーマンスの色彩が強い。今後のネルギー政策を見直すとしながら、検査の結果安全が確認されれば既存の原発を容認するといったり、原発から再生エネルギーに比重を転換するとは一言も言っていない。
 日本の国難とも取れる今の状況で、確りした政治理念と国政の運営能力を持ち合わせない、今の政府を国民は何時まで我慢したらいいのかと思ってしまう。
 今の国政に対する私の見方は、そんなに大きく外れていないのではと思うのですが、
「国民感情」は如何なんでしょうか?
 

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