2012年6月21日木曜日

良い独善と悪い独善


他の人達に影響を及ぼす事の無い個人の思想や考え方は、特に問題にされる事は有りません。しかし、国政に携わる政治家や公的決定に関わる人達は、そうは行きません。その言動や思想信条は、常に公の場に反映されて、結果、多くの人達に多大の影響を及ぼす事になるからです。
それ故、常に自分の考え方や政策については、事前に他の考え方と良くすり合わせ周知して理解を得る努力が重要に成ります。そして決して拙速や独善に陥る事の無いように、心掛けねば成らないと思うのです。
それなら、ちょっと、独善とは何かを見てみますと、最初に、他人に関与する事なく自分の身だけを正しく修める事<「猛士」尽心上から>と有り、その他、自分だけが正しいと思う事、独りよがり、と有りました。本来の意味の「独善」とは、とても好ましいものだと思われます。
この、他の人に関わらず、自分自身の身を正しく処すると言うのであれば、公人にとっても問題は少ないと思うのですが、独りよがりや自分だけが正しいとする独善は、当然多くの問題を含む事と成ります。
極めつけは、政策提案者が「私が責任をとります」と言う、独りよがりな言葉です。政治家と言えども、一人の人間が多くの人々に対して、どんな責任を取ると言うのでしょうか。思い違いも甚だしい独善と言えます。また、今までに政治家が、結果に責任を取ったと言う例を見た事が有りません。
公的な委員会や諮問会議などの席上がよくテレビで映し出されますが、どうしてあんなにも多くの人が必要なのかと思われるほど、多くのメンバーが顔を揃えています。
現代に於ける民主主義の物事の決定プロセスは、やはり、多くの考え方や知見をすり合わせ、結論を導き出す事が最も重要な事ではないでしょうか。
ひと握りの政策提案者が、その政策について十分な理由や根拠を示さず、周囲の納得も得られないまま、拙速に物事を進めようとする手法は、非常に危険な行為と映ります。
特に、たまたま重要な地位に付く事となった個人が、その地位を利用して、周囲の広範な理解を得ぬまま自己の観念的な思い込みを、強引に実現しようとする行為は、民主主義の決定プロセスとしては極めて危険で最悪の独善と言う他有りません。
更に、自己の政策遂行を正当化する為世界という公の場で、あたかもその政策が内々で多くの支持を得て、実行可能であるかの如く吹聴する行為も、極めて巧妙で汚い手法と言わざる負えません。
  真に重要な事は、多くの人達がその政策を十分納得して支持する事だと考えます。その為には、目先の時間を区切るのでは無く、十分な議論を尽くし、真実の状況を周知して、そこで多くの人々の決済を仰ぐ勇気を持つ事だと思うのです。いずれも、支持を得られていない者同士が姑息に談合しあって、互の駆け引きだけで物事を決めて行くと言う悪習だけは、一掃して行かなければならないと考えます。



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