私のいつもの散歩ルートに敷地が広く立派な幼稚園があり、その正門の脇に小さな古墳がある。初めのうち、珍しくて近くから覗いたりしていたが、入り口は中に入れないように鉄格子があって、薄暗く良く見ることは出来ない。
私は、歴史には興味があるが、古代史にはもう一つ興味を持っていなかった。
私には古代史に詳しい子供の時からの友人がいて、彼が定期的に、その時代の本を紹介したり、自分なりの考察をブログで述べていて、アーそうなのか、と勉強させられる。そう言うわけで、散歩ルートの小さな古墳をもう一度覗いてみた。
宝塚市の史跡として、その入り口には解説のプレートもあって、この古墳の解説が書かれている。
この古墳は切畑古墳群の中の最も東に位置する一つらしく、長尾山丘陵の南斜面の標高120mの地点にあり、切畑群集墳1号墳とある。径が14m、高さ3.5mの円墳で、内部に両袖式の横穴式石室があると記されていた。古墳時代後期の6世紀半ばのものと言うことだ。この宝塚の丘陵地帯には二群五基の古墳が存在するらしく、わたしの住んでいる地域のすぐ裏に石切山と言う地名の山があるが、ここから容易に石材が切り出されたのだろうと解説されていた。
Wikipediaを検索してみると3世紀から7世紀の間の古墳時代に倭国からヤマト政権が確立して、この時代に日本国と言う名称が使われたと有る。この時代、今の奈良地域から全国に大型の前方後円墳が造られ古墳時代の後期は飛鳥時代に繋がると記されていた。この時代の前から、倭国は朝鮮の百済や新羅を従属させ統治した時期もあったとも記されていて興味深かった。
子供の頃の教科書に載っていたのかどうかは覚えていないが、中学、高校レベルでは、ごく薄っぺらい記述で、深く学ぶ事も無かったのではないだろうか。
それでも、全国には熱心な考古学フアンが沢山居られて、各地の発掘現場などに大勢つめかけている。去年の秋、ひょんなことで奈良公園から南に向かって車を走らせたが、明日香村に有る飛鳥資料館等に立ち寄って、古代の奈良の雰囲気を味わったのを思い出した。
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