今朝の日経一面を、サッと見回したとき、気になる記事の書き出しが目に留まった。それは、昨日の東電の原発事故に対する国会質問に対する菅首相の答弁内容だ。
原発事故の責任を巡っては、首相は「原子力政策は国が推進して来た政策課題であり、国に大きな責任がある」との認識を示し、自らの進退について、「今、担っている責任を自ら放棄する事は全く考えていない」と原発事故への対応を、自らの進退と結びつけて否定している。
菅首相を考える時、彼の政治家としてのアイデンティティーは、厚生労働大臣時代の薬害エイズの国の責任を、国として始めて認め薬害被害者の救済につながった、市民派としての評価ではなかったか。しかし、今回の原子力事故に繋がった東電への対応を、薬害エイズと同じロジックで考えるべきではないと思うのです。あくまで、東電は首都圏の電力供給を担っている企業とはいえ、一民間企業であり、事故の原因が想定外の地震津波によるといえども、原発立地自体は当初より高い想定のもとで、万全の安全性を考慮して建設される事が求められたはずである。そこに、想定外という言葉を使うことは、事故に繋がった責任を自然災害に転化してしまう意図も見えてくる。まして、其の、想定に国が関わっていたとするならば、それは論外で国の責任も免れないが、そこまで認識した上での首相答弁なのだろうか。
国会と言う場で、首相として自らの立場の弁護に不用意な表現をする事で、其の後の国の対応に大きく関わってくる事が予想されるのです。今の民主党執行部は元来、社会主義的思想が垣間見える政党ではあるが、自由主義市場経済の基本的システムとしては、全てを国が肩代わりする理屈は持ち合わせていない。一企業に由来する、国民の損害に対して、国がその救済のスキームに手助けすることがあっても、それを肩代わりして、国民の税金で処理してしまうという正当性は全く成り立たないと思うからです。
それは、ついこの前のバブル崩壊による我が国の銀行救済や米国でのリーマンブラザース破綻処理等など、企業と投資家の有限責任は、まぬがれる事が出来ない資本主義経済のスキームだと思うからです。
同じく、今日の別の紙面に、日経の論説委員による「一目均衡」というコラムで「東電の投資家」対「納税者」と言う見出しがある。
東電の原発事故の補償問題は重要だが不透明な二つの点があるとして、責任の所在と不明な保障総額を上げている。当初政府は東電の有責を言いながら、被害総額が判明しない中で、最近政府部内で浮上してきている東電支援案は、保障財源確保の公的支援や電力料金値上げにより、納税者や全国の利用者が負担をかぶる可能性がある案なのです。
巨額に上る事が想定される災害補償で、東電が債務超過に陥り、上場の廃止と電力債の債務不履行と言う金融市場の混乱を恐れて、政府は保障総額が不明のまま、支援案を検討しているいという事です。政府以外では、将来的に特別立法で公的資金を確保した上、東電を一旦破たん処理し、電力債は新・東電の株に転換するというスキームを示す専門家もいるという。
今の菅政権の案では、「有責だとする東電の投資家を守り、納税者や利用者に負担リスクを付け回す内容」とする企業再生の実務家の意見も紹介している。
菅首相が設置した復興構想会議にしても、其の意向を入れてか、冒頭から復興財源の確保に復興税構想が持ち出されたり、負担を国民に付回す、短絡的な増税依存の考え方が今の菅首相と民主党内閣には見え隠れするのです。巨額の保障額が見込まれるからと言って、基本を逸脱して例外的な誤魔化しの対応は、後々、必ず禍根を残す事になりかねません。
大災害に見舞われた、被災地の復興に、日本国民が一致団結して当たる事に何の不満も無い、短絡的な思い付きでは無く、その為の十分な議論が求められるのは当然ではないでしょうか。
福島第一原発周辺の避難住民は大津波の被害を免れたにも関わらず、未だに復興の手がかりさえ掴めていません。大津波に破壊された被災地では、地域自治体と生き残った住民が自らの手で復興に立ち上がっています。我々もこれからの長い戦いを支援していかなければと考えています。
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