2011年4月30日土曜日

連休初日

  先日、このブログでハナミズキのことを書いたが、東日本大震災の復興対策本部のメンバーに選ばれている安藤忠男氏が、TVで阪神淡路大震災の復興10周年を記念して、兵庫県を中心にコブシ、モクレン、ハナミズキの25万本を植樹する運動を呼びかけたとのことだった。どうりで、私がリタイヤした6年前頃から、ハナミズキの木を良く見るような気がしていた。実際は、白い花をっける木の植樹を進めたとのことなので、ハナミズキも白い花をつける木を植えたのだろう。近所でもモクレンの木も多く見かける。私にはピンクの花を付けるアメリカハナミズキが可愛くて、目に付いたのかもしれない。
 連休初日の今日は、アンディーにせがまれて(何処にも行かないのかと、本当に催促するのですよ)、昼からドライブがてら裏山を越えた下道を、西に向かって走った。朝の8時代の高速道路は、宝塚トンネルを先頭に40キロと言っていたが、昼からの裏道は渋滞も無く、若草色の、すがすがしい木々の新緑を眺めながらのドライブを、楽しんだ。
 いつもの神戸三田アウトレットパーク迄30分、奥さんがお気に入りのブランドを物色している間、アンディーと私は人間ウヲッチングをしながら、十分ウォーキングが出来た。何かお腹に入れようかと思ったが、人ごみを離れてユウターンすることにして、帰り道にある宝塚園芸振興センター(通称、宝塚あいあいパーク)に立ち寄った。ここは、広い駐車場が有り、おまけに、オープンカフェと焼きたてのパンを売っている店が併設されていて、子供ずれの若いカップルや、ガーデニングの花々を買い求めに来るシニヤで盛況だった。園芸センターを覗くと、中庭は色とりどりのバラで埋めつくされていて、何度か試した黄色のモッコウバラなども苗木が出ていた。
 それと、1メートル未満の白やピンクのアメリカハナミズキの苗木がおかれていて、枝振りの品定めをしている人達が見られた。やはり、自宅の庭に植える木として結構人気があるようだ。
 バラといえば隣の伊丹市に、荒牧バラ公園と言う関西でも有数のバラを栽培している市立の公園があり、ここも、これからバラの季節に掛けて賑わうところなのです。ほとんどの公園が、ペット同伴不可と言われる中、入場が許可される数少ない公園で、5月のバラの見ごろには何度も訪れている。夕方に掛けて気温も上がり、まずまずの外出日よりだった。
 
 

2011年4月29日金曜日

中日クラウンズの季節

            今年も、中日クラウンズの季節が来た。毎年、このゴーデンウイーク期間中の4日間、名古屋ゴルフ倶楽部和合コースで開催される。日本男子ゴルフツアーのトーナメントで52回目の開催だ。
 内外のプロゴルファーが参加するこの大会は、過去に数々の名勝負が繰り広げられ、年前半のビッグな大会とされている。この名古屋ゴルフ倶楽部でのトーナメントのコースレコードは、11回大会で安田春雄が3日目に記録した8アンダー62だったそうだ。ところが昨年日本のプロゴルフ界の期待のホープ、石川 遼選手が、なんと1日で12アンダー58という、とんでもない記録を出し、6打差を逆転して優勝してしまった。和合コースは6.545ヤード、パー70で、日本の男子ゴルフトーナメントの開催コースとしては長いコースではない、それでも58ストロークと言うのは、世界の6大ツアーでの最小ストロークだそうだ。十代でプロゴルファーに転向した彼は、非凡な何かを持っている人なのかもしれない。またこの大会には、過去に優勝経験のある懐かしいプロの顔も見ることが出来る。
 私は40代後半の名古屋支店勤務の折には、トーナメント期間中に、コースへ足を運んだ事もあるし、何度か和合コースでプレーしたこともあったが、私のようなアベレージゴルファーには特別の感慨も無かった。何しろ、当時法人部に頼んでもこのコースをエントリーする事がなかなか難しくて、回数を行く事が出来なかったからだ。
 しかし、このトーナメントは世間が平和な時、気候も暖かくなり、夏前のすがすがしい季節の到来を告げるゴルフトーナメントのような気がしていた。
 ゴルフをする我々も、年末から年明けの3月初め頃迄は冬場のゴルフで、体も思うように動かず、なかなか満足する成績も望めない。特にシニアはそんなものなのだ。
 私も、研修会と称して決まった仲間で、互いのプレーをチェックしあいながら、ゴルフを続けているて、ゴールデンウイーク明けには、同期会のコンペも控えている。
 冬場に太くなったウエスト周りを、少しは絞り込まなければと考えている、今日この頃である。 

2011年4月28日木曜日

「それは結果であって、原因では無い」

 ひょっとして、私は人より考え方が過激なのだろうかと自問する事がある。それにしても、腹の立つ事が多すぎて、ついつい何かに胸の中を吐き出さずにはいられない。
 大阪地検特捜部の前田元主任検事による、証拠改ザン事件で、証拠隠滅罪の刑が1年6ヶ月の実刑に確定したというニュースが流れた。しかも双方が控訴しなかった為、刑が確定したとの事だが、弁護士を通じて出したコメントが振るっている。「判決を真摯に受け止め、潔く刑に服する事にした」と言うものだ。「馬鹿な」、潔くも何も、卑しくも検察官が自らの面子か組織のプレッシャーか知らないが、自分に都合の良い証拠をでっち上げて、無実の国民を罪に貶めようと意図した行為は、言語道断、前代未聞の行為で、恥ずかしくて判決後にコメントスを出すなどという立場には無い。しかも、元々求刑2年と言うのが問題であると思う。だから、1年6月と言う実刑そのものが、いかにも甘すぎると考えるのだが如何だろうか。かねがね、日本の司法は、草食化していてヒューマニズムを取り違えているのではないかとさえ思うのです。日本の法曹界そのものの、抜本的な見直しが必要なのではないでしょうか。いったい、今回の事件で、検察庁の体質まで踏み込んで徹底した原因究明が、本当に出来たのでしょうか。昨日も、江田法務大臣を通じて、全ての検察の取調べで、録音を実施するというニュースが流れていたが、日々の出来事のドサクサにまぎれて、トップの辞任や一部の人事で、この問題が適当に処理されるような事は、絶対にあってはならない問題だと思うのです。我が国の先進国としての沽券に関わる問題では無いかと思うからです。
 裁判を司る裁判官、検事、弁護士、それらを包括する日本の裁判所や検察庁等の司法組織は、何処に出しても恥ずかしくない組織として、適切に機能しているのだろうか。
 捜査のあり方、起訴のあり方や量刑判断等、過去の判例だけにとらわれない時代に即した法律の運用がされているのだろうか。
 かつて、民事裁判に少し関わった経験があるが、その実態を覗いてとても大きな疑問を感じたものだ。まるで、ノンフィクションだが、虚構の脚本を書いているかと思わせる裁判の進行を見ていて、こんなものかと唖然とした。
 それと、今回の場合も身内が身内を裁くという構図で、それでなくとも公務員の不祥事は、民間であれば必ず起訴され、刑事事件にされるところを、訓戒とか譴責、依願退職などで取り繕ってしまう日常があるのです。私は、このような身内を庇い合う公務員組織の体質が目に付いて成らない。
 昨日、クローズアップ現代という番組で、尼崎のJR事故の原因究明をしているメンバーで、作家の柳田邦男氏の言葉が、耳に響いた。「それは、結果であって、原因ではない」という言葉だ。大阪地検特捜部の前田元主任検事の事件も、その結果としての行為を個人的な原因に帰するのではなく、様々な要因を広く見つめ直さなければ、本当の原因の究明とその改善や対策が取れないのではないだろうか。国の制度も適切に運用されてこそ、遍く国民に資するものと思うのです。
 このことは、色々な所で指摘する事が出来るかもしれません。もっとも近いところでは、結果的に引き起こされた福島第一原発の事故です。いずれ検証される事だと思うのですが、国によるエネルギー政策の推進や、日本の電力会社が原子力発電に傾斜して行った背景などです。

2011年4月27日水曜日

KONICAMINOLTA

 私は、今、何か作る事は何もしていない。日々、40~50分の散歩で、季節が変わっていく様子をカメラに収めるのが日課になっている。其の散歩に携帯していくのは、CAMONのG12というカメラだ。これはとても良く出来たカメラで、特にバリアングルと言って、背面の液晶画面が可動式になっていてほとんどのアングルで写真が撮れる。
 CANONのコンパクトカメラの中ではハイエンドのカメラで其のシリーズの12番目の製品になる。以前、私はこのGシリーズの最初の製品であるG1を持っていて、随分前に息子に譲ったが、今も手元にあってたまに写真を撮るとのことだ。
 そしてもう一つ、私が今はまっているカメラがKONICAMINOLTAのA2というカメラだ。
これは、7年程前、私が使っていたMINOLTAのA1と言う機種の改良版で、MINOLTAもこの間、KONICAと合併してKONICAMINOLTAと言う会社になっていた。
 以前持っていたそのA1は購入後CCDの不具合が発生してリコールとなり、結果的にMINOLTAから買戻しの依頼が来て、やむなく手放した経緯があるカメラだった。2/3インチ500万画素のCCDで28ミリ~200ミリ相当の手動の7倍ズームレンズが付いていた、シャッタースピードも1/16000秒の電子式シャッターという他のコンパクトカメラには無い仕様のカメラで、いい写真が撮れた。
 A2はKONICAと合併した後、CCDを800万画素にリファインして出された改良版で、仕様そのものは、A1とほとんど変わらなかった。KONICAMINOLTAになってから同じレンズをつけたA200という機種が出されたが、こちらのほうが、外形も少し小ぶりになって、仕様に相当改良が加えられた製品とのことだ。これらは、皆、アイレベルファインダーが稼動式で、背面の1.8インチ液晶も手前に動かせたので、今のCANON G12のバリアングルに近い手法がこのカメラにも、既に採用されていた。
 いずれにしても、その後KONICAMINOLTAは、カメラ事業をSONYに売却してしまって、その事業から撤退してしまったので、ユーザーだけが取り残される結果となった。しかしこの製品には、根強い人気があって、今でもオークションで売り買いされているのです。
 私も、このカメラをオークションで見つけ、8.000円ほどの考えられない価格で手に入れた。フラッグシップのA2を大幅に改良したA200の人気も依然として高く、このカメラにも触手が動いたが、まずはA2を使いこなしてからと思っている。ズーム域も電子ズームを使うと400ミリ近くカバーでき、手振れ補正が付いているのでとても使い勝手が良い。
 そして、私が今このカメラで撮っているのは、花など植物のアップが多くて、その写真が気に入っている。まだ腕が付いて来て無いので、もう少し使いこなして良い写真が取れればと思っている。写真のバッテリーパックは、以前買い戻されたA1の時から持っていたものです。

2011年4月26日火曜日

国会答弁

 今朝の日経一面を、サッと見回したとき、気になる記事の書き出しが目に留まった。それは、昨日の東電の原発事故に対する国会質問に対する菅首相の答弁内容だ。
 原発事故の責任を巡っては、首相は「原子力政策は国が推進して来た政策課題であり、国に大きな責任がある」との認識を示し、自らの進退について、「今、担っている責任を自ら放棄する事は全く考えていない」と原発事故への対応を、自らの進退と結びつけて否定している。
 菅首相を考える時、彼の政治家としてのアイデンティティーは、厚生労働大臣時代の薬害エイズの国の責任を、国として始めて認め薬害被害者の救済につながった、市民派としての評価ではなかったか。しかし、今回の原子力事故に繋がった東電への対応を、薬害エイズと同じロジックで考えるべきではないと思うのです。あくまで、東電は首都圏の電力供給を担っている企業とはいえ、一民間企業であり、事故の原因が想定外の地震津波によるといえども、原発立地自体は当初より高い想定のもとで、万全の安全性を考慮して建設される事が求められたはずである。そこに、想定外という言葉を使うことは、事故に繋がった責任を自然災害に転化してしまう意図も見えてくる。まして、其の、想定に国が関わっていたとするならば、それは論外で国の責任も免れないが、そこまで認識した上での首相答弁なのだろうか。
 国会と言う場で、首相として自らの立場の弁護に不用意な表現をする事で、其の後の国の対応に大きく関わってくる事が予想されるのです。今の民主党執行部は元来、社会主義的思想が垣間見える政党ではあるが、自由主義市場経済の基本的システムとしては、全てを国が肩代わりする理屈は持ち合わせていない。一企業に由来する、国民の損害に対して、国がその救済のスキームに手助けすることがあっても、それを肩代わりして、国民の税金で処理してしまうという正当性は全く成り立たないと思うからです。
 それは、ついこの前のバブル崩壊による我が国の銀行救済や米国でのリーマンブラザース破綻処理等など、企業と投資家の有限責任は、まぬがれる事が出来ない資本主義経済のスキームだと思うからです。
 同じく、今日の別の紙面に、日経の論説委員による「一目均衡」というコラムで「東電の投資家」対「納税者」と言う見出しがある。
 東電の原発事故の補償問題は重要だが不透明な二つの点があるとして、責任の所在と不明な保障総額を上げている。当初政府は東電の有責を言いながら、被害総額が判明しない中で、最近政府部内で浮上してきている東電支援案は、保障財源確保の公的支援や電力料金値上げにより、納税者や全国の利用者が負担をかぶる可能性がある案なのです。
 巨額に上る事が想定される災害補償で、東電が債務超過に陥り、上場の廃止と電力債の債務不履行と言う金融市場の混乱を恐れて、政府は保障総額が不明のまま、支援案を検討しているいという事です。政府以外では、将来的に特別立法で公的資金を確保した上、東電を一旦破たん処理し、電力債は新・東電の株に転換するというスキームを示す専門家もいるという。
 今の菅政権の案では、「有責だとする東電の投資家を守り、納税者や利用者に負担リスクを付け回す内容」とする企業再生の実務家の意見も紹介している。
 菅首相が設置した復興構想会議にしても、其の意向を入れてか、冒頭から復興財源の確保に復興税構想が持ち出されたり、負担を国民に付回す、短絡的な増税依存の考え方が今の菅首相と民主党内閣には見え隠れするのです。巨額の保障額が見込まれるからと言って、基本を逸脱して例外的な誤魔化しの対応は、後々、必ず禍根を残す事になりかねません。
 大災害に見舞われた、被災地の復興に、日本国民が一致団結して当たる事に何の不満も無い、短絡的な思い付きでは無く、その為の十分な議論が求められるのは当然ではないでしょうか。
 福島第一原発周辺の避難住民は大津波の被害を免れたにも関わらず、未だに復興の手がかりさえ掴めていません。大津波に破壊された被災地では、地域自治体と生き残った住民が自らの手で復興に立ち上がっています。我々もこれからの長い戦いを支援していかなければと考えています。

2011年4月24日日曜日

一日、クラシックの日

 今朝6時過ぎに目が覚めた。昨日から娘と孫達が泊まりに来ていて、リビングに続く和室で雑魚寝をしている。ボリュームを下げて、テレビをつけると、たまたま、NHKのプレミアムが掛かっていて、聞きなれた、ベートーベンの第9の演奏が流れてきた。番組情報を見ると、東日本大震災チャリティーコンサートで、「特選オーケストラ・ライブ ズービン・メータ 希望の響き」という番組をやっていて、ズービン・メータがNHK交響楽団を指揮していた。4月10日の東京文化会館での収録との事だ。ベートーベンの第9の演奏は年の瀬の12月に聞くことが多くて、めったにこの時期テレビで放送される事も少ない。しかも、ズービン・メータが指揮する演奏は久し振りに見た。私のお気に入りのレコードで、若い頃のズービン・メータがウイーンフィル・ハーモニーを指揮するマーラーの交響曲第2番ハ短調「復活」は、何度も何度も聞き返して、ジャケットが擦り切れそうになっている。ジャケットにはメータの指揮する様子が載っているが、今朝の第9を指揮するメータはすっかり白髪になっていた。それでも、その容姿は俳優を思わせる面立ちで、しなやかな指揮振がかっこ良かった。
 遅がけに、起きてきた孫達は、母親にせかされながら公文の宿題に取り掛かり、ひとしきり遊んで、昼食後には家を出た。私も家内の買い物に付き合うので車を出すと、今度は車のFMラジオからショパンのピアノ協奏曲第1番が流れてきた。とても良い軽やかなピアノ演奏で、運転しながら聞き入ってしまった。奥さんの買い物中も、助手席で昼寝しているアンディーと一緒に最後まで演奏を聞くことが出来た。ピアノは、ユリアンナ・アブデーエワというピアニストで指揮はシャルル・ヂュボワさんの、これもNHK交響楽団だった。ショパンが終わると、今度はバイオリン協奏曲で、それも、ベートーベンのバイオリン協奏曲ニ短調「作品61」が続けて始まった。これは、私の大好きな協奏曲で、ハイフェンツとアンネ・ゾフィー・ムターのCDを持っていて、いずれも優劣つけ難い演奏だと思っている。
 マーケットでの食材の買い物とリビングのダウンライトの電球を買いにホームセンターに寄る間、ずっと、車中演奏会を楽しむ事が出来た。バイオリン協奏曲は最後まで聞くことが出来なかったが、とても有意義な時間で、今日は朝から、クラシック漬けの一日となった。
 それと、気が付けば、我が家の周りのつつじに沢山のつぼみが付きだして、近じか花盛りの写真がアップ出来そうだ。

2011年4月23日土曜日

漠然とした不安

 新聞紙上で伺える状況を見ていると、なんとなく日本社会の先行きに不安な気持ちが沸いてくるのです。3月11日の東日本大震災から40日以上が過ぎました。岩手、宮城、福島3県を中心に死者、行方不明合わせて28.000人近い人的被害が出て、三陸海岸沿いの市や村が壊滅しました。そこに、追い討ちをかける福島第一原子力発電所の事故です。被災地の人達は、肉親を失ったり、家屋など生活の基盤を全て津波に持っていかれて、当座は、途方にくれたものと思います。しかし人は強いもので、時間と共に、復活の動きを始めています。私も2007年の阪神淡路大震災を経験しましたが、大きな被害を免れました。しかしその時は、何か呆然として、事態の理解に一瞬、と惑いを覚えたものです。地震発生後しばらくで、神戸の市街は火の海でした。時間と共に、死傷者の数もどんどん増えて、悲惨な災害と成ったのです。
 しかし、あの時の経験を思い起こすにつけても、当時、今感じる様な何処と無く不安な感じというのは、ありませんでした。この不安感は何なんでしょうか。じっと考えると、やはり社会に対する先行きの、漠然とした不安なのです。国の行政に対する安心感の欠如ではないでしょうか。
 今の政府には、地震津波の被災地対応に加え、福島原発事故そのものと地域に広がる放射能被害の問題が大きく圧し掛かっています。そして、今の民主党政権は、それらの対処に掛かりきりなのですが、其の対応を伺うに、到底、適切に機能しているとは思われません。政府の発表も後手後手に回っており、被災地の住民にも不安が広がっています。
 全国から、被災地に、今までに無い支援の手が差し伸べられています。しかし一方、日本の中心地である関東地域で放射能に対する風評が広がったり、身の回り品の買い溜めが見られました。
そして、今度は日本全体に、大きな買い控え、節約ムードが生まれているのです。この個人消費の急激な落ち込みに加えて、行楽の春を迎えても全国的に人の動きが手控えられて、被災地に近い観光地だけでなく、日本全体で自粛の動きを強め、海外からの観光客も大きく落ち込んでいます。
 一方、企業の生産活動はと言うと、東関東で地震による工場の被災や物流に欠かせない港湾設備の機能壊失等大きな影響が出ています。それに加えて東電と東北電力の電力供給が大きく失われ、節電等、電力供給の制約から、夏場の需要期に関わらず生産に大きなブレーキが予想されているのです。このことは、日本経済の屋台骨である工業製品の輸出に大きく影響してくるのは必死の状況です。
 今度の大震災を契機に、日本の経済社会が受けたダメージは、どのようなものか計り知れない状況です。東京電力は原発事故による地域保障の限度を越えていると言われています。政府はこの地域の保証に公的資金で保障する案が出ているようですが、其の事は、国民全体で、東電の原子力事故に対して税をもって肩代わりすると言う事を意味します。
 政府では、第一次補正予算に対応すべく、様々な党の公約実施を取りやめにする様です。
子供手当、高校授業料無償化、高速道路料金割引、農家所得保障、法人税減税それに石油高騰時のガソリン税一時廃止の凍結、等々ほとんどが其の対象になるのでは無いでしょうか。
 それに加えて、当座、復興目的の国債発行で対応するものの、早くも其の償還財源を名目に、消費税や期間限定の所得税増税の案が先行してきているのです。
 今の日本で、既存のどの政党が担っても、事態が大きく改善するとは思われませんが、今の政治家のやり口を見ているて、今回は、日本にとって正念場と思える様な国難の状況下で、僭越ながら、あまりにも狭量で稚拙な動としか思えないのは私だけでしょうか。
 健全な日本社会は、過去の阪神大震災のときに立ち上がった、ボランティア活動が今回大きく盛り上がっています。一般に対する、メディアやマスコミの世論調査でも、消費税を含む増税を容認する調査結果も出ています。賢い国民の、衆愚に陥らない事を願うものです。
 それにしても、今の政府は、私達が日本全体の運営を託すに足る政府なのでしょうか。今それを言うのは酷かも知れませんが、国政は震災対応だけではないというのも現実で、政府はいかなる事態にも内政外交全般について、目配りする事が求められるのは当然の事です。
 たまたま、国民が変化を期待した政権は、政治の運用力に経験の乏しく、その様な政権の下で、運悪くこのような大災害が発生してしまいました。我々一般の国民は、時の政府が災害を収束し、国民生活全般に適切な対応をする事を願っています。現政権の当初の公約は、ほぼ全て取り下げられて、政治手法に経験の乏しい、政治家主導のスローガンだけが後に残りました。
 しかし、地域行政と生き残った被災地住民は、自らの手で復興を果たそうと立ち上がっています。
どうか、政府は地域の人々を適切に支えて、決して、被災地域の足をすくう事の無いように願って、見守って行きたいと思います。
 

2011年4月22日金曜日

TANNOYスピーカー

 1975年(昭和50年)8月、私は会社の始めての転勤で四国の松山に渡った。渡ったと書いたのは、当時四国に行くには、飛行機か、船に乗っていく以外に無かったからだ。6年半に及ぶ四国暮らしについては、又の機会に書くことにして、今日は四国に渡ってからのオーディオの思い出を紹介したい。
 市電の通る県庁前の通りと、地元の大街道という通りの交差する角に四国電業という電気屋があった。松山での電器製品の購入はこの店がメインだった。名前は忘れたが、私に丁重な敬語で接する店員が居たのを覚えている。タンノイのアーデンというスピーカーを注文したのは、この店だった。 オーディオ雑誌で仕入れた情報を頼りに、私はオーディオ機器をこの店で注文していた。アンプ類に録音デッキ、それにスピーカー等などだった。
 以前、芥川賞作家の五味康祐氏の事をこのブログで書いたが、この五味康祐氏のメインのスピーカーがタンノイのスピーカーで、それは、オートグラフといって、英国のTANNOY社から発売されており、クラシック音楽の再生スピーカーとしては、第一級の評価を受けていた物だった。
 38センチの同軸スピーカーの開発で、オーディオ界で高い評価を受けたこのスピーカーを、つぎつぎに展開して新たな製品を発売したが、日本ではTEACががその販売代理店を勤めていた。当時既に、オーディオファンの注目を集めていたJBLは山水が輸入代理店を務めており、TANNOYとは、又、別の評価の製品だったと思っている。
  私は それまで、ONKYOの83MKⅢと言う大型のブックシェルフ型スピーカーで音楽を聴いていたが、その後四国に渡ってから、TANNOYの存在を知る事になったのだ。其の頃、私の収入で手に入る限度は、TANNOYのARDENが精一杯で、それでもスピーカーワンセットで40万を越えていた。それは、TANNOYが開発した38センチのデュワル・コンセントリック、同軸2ウェイスピーカーを用いて現代風にアレンジされた新製品だった。それをセッティングしたときの気持の高振り  
は、今も覚えている。
 其の当時の、私の再生装置は、パワーアンプがQEAD405で、プリアンプにLUXの真空管アンプCL32というちぐはぐな物だった。そして、アナログプレーヤーは、その後何故か、早く手放してしまった西ドイツのDUAL1219だったのだ。今考えれば、このシンプルなシステムの音は、まるで単音を奏でるような、透き通った再生音であったと記憶している。
 38センチのスピーカーから出てくる音としては、とても可愛らしく高音部が印象的で、そうかと言ってベースの音量が不足している事は無かった。ゆっくりとした低音にキラキラした高音部が乗っているとでも表現する音の広がりは、当時の私にとってこの上ない再生音で、私は四国の田舎で一人悦にいっていた。今となって思い返すと、その後、長い付き合いとなったTANNOYのARDENもさることながら、其のシステムから出てくる音の広がりは、DUAL1219というオートチェンジャーのアナログプレーヤーが、大きく影響していたのでは無いかと思っている。それと、LUXのCL32というシンプルな真空管アンプがシステムの音色を担っていたのかも知れない。
 その後もアンプやプレーヤー、テープデッキなどは色々入れ替えたが、TANNOYのARDENだけは四国から大阪に転居して、阪神大震災を経験する2007年にも、我が家のリビングに置かれて、私のオーディオシステムの中心に座っていた。。

2011年4月21日木曜日

春の練習ラウンド

 今日は、私の修業道場で、M君を除くいつものメンバーが、練習ラウンドを行った。快晴の天気で朝は霧がありましたが、9時10分、インスタートの時には霧も晴れて問題無かった。
 INスタートの10番は、私だけが、6番アイアンで2オン、ツーパットのパー、と上場の立ち上がりとなった。ところが、早くも、次の11番パーファイブで、ドライバーをテンプラ、OBを免れたセカンドショットで、フェアウェイ中央を横切るクリークに打ち込んだ。ワンペナルティーとなるサードショットを今度はグリーンをガードするクリークの手前へ、5打めが左奥のバンカーにつかまって、今度は短いアプローチのバンカーショットをトップ、グリーン手前のクリークに入れてしまう。ようやくグリーンにオンしたものの、グリーン上で、スリーパットをしてしまった。はたして、11番は何打で上がったでしょうか? パー5のところを10打叩いてしまいました。
 今日のゴルフも、早々にインの11番でスコアーの興味が無くなった。その後次の12番パー3で、パーをキープしたものの、結局途中でリカバリー出来ず、挙句に17、18と崩れて59点の大叩きとなってしまいました。桜は散り始めていましたが、コースサイドは綺麗なピンクの山つつじが見られ、12番ショートコースでは、朝にも関わらず3匹の子供らしい狸の出迎えもあって、のどかな雰囲気でした。
 何とか午後のラウンドは引き締めようとのぞんだ結果、アウトの1番から4ホール3パットが続いたものの6番からパー、ボギー、パー、パーと4ホールを締めて44点で上がる事が出来た。
 ハンディキャップ14のN君もパットに悩んで、調子を崩し、トータルは私とどっこいの成績で上がる。いつも80点前半でラウンドするハンディキャップ9のU君が4つのOBを叩きながらも、46,46、と健闘した。このコースでは、月例競技で、シングルハンデの人であっても、簡単にスコアーを崩してしまう難コースなのだ。5月11日には、ここで同期のゴルフコンペを企画しているで、先が思いやられる。
 それにしても、私はスタートからドライバーの調子が今一つで、今日もトータルとして課題を残す一日となってしまった。

2011年4月20日水曜日

ハナミズキ

 いつもの、散歩コースに花水木が花を付け出した。雲雀の公園の横にレンガ造りの消防署があって、その敷地に比較的大きな花水木の木が植えられている。花は薄いピンク色をしていて形がとても可愛らしい。

 現役の頃は、花水木にあまり気がつかなかったように思うが、ここ10年ほどの間に増えたのだろうかと思うほどだ。そういえば、リタイア前の3年間、京都に行っていたが、四条烏丸の交差点に綺麗な花水木が咲いていたのを見て、ヘーこんなとこに、と思ったのを覚えている。
 でも、私が花水木を意識して見るようになったのは、ここ宝塚に来てからだと思う。宝塚大劇場周辺やファミリーランド跡地などで特に綺麗に咲いた花水木を見ることが出来る。

 実は我が家のあるマンション敷地にも、三年前ほどに二本の花水木が植えられている。白い花を付けるものと、薄いピンクのものだが、木が若くてまだ綺麗な花をつけるまでには育っていない。

 ちょっと、Wikipediaを覗いてみると、ハナミズキは学名をBenthamidia florida,ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木で北アメリカ原産とある。何でも、1912年東京市長だった尾崎行雄がアメリカワシントンDCにソメイヨシノの桜の苗木を二千本送った返礼に、アメリカから送られたのが日本に渡った始めだと言う。

 又、私の散歩コースにヤマボウシ公園と言うのがあるので、ついでにヤマボウシを見てみると、七月頃に淡黄色の花を付けるミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属、学名がBenthamidia Japonicaとあった。ハナミズキは近縁だそうだ。

 どちらにしても、以前は、こうやって世間を見ながらゆっくり歩く事が無かったので、気がつかなかったものが沢山あることに気付くこの頃だ。

2011年4月18日月曜日

友人の來阪

 大震災の後でも私の日常は、あれこれ毎日何かしら予定があって時間が過ぎてゆく。先週は中学時代からの友人で、四国の西予市に移り住んでいるS君が來阪した。彼は奈良に住まいを持っていたが、定年を期に奥さんの実家があった四国の家をリホームして、移住したのだ。
 移り住んで5年に成るが、海抜300メートルの山間の村で人口は400人程だという。そこが、よほど居心地がいいと見えて、うっすら日焼けしていて、元気そのものに見える。3月迄、村の区長をしていたらしいが、そんな事も地域にとけこむむ事が出来た理由だったのかも知れない。
 松山に行くのに1時間ちょっと、宇和島までで30分のところで、彼が今まで村で取り組んでいたのが、その国道沿いの道の駅に、農協で出荷されない規格外の野菜や農産物を販売すると事だったそうだ。農協で集荷する農産物は箱詰めして出荷する際、不揃いのものをはねるらしい。野菜そのものには、何処も悪いところが無いので、価格を下げて店頭に出せば、十分販売できて農家の収入にもなる、一石二鳥なのだと言っていた。
 自宅の周りは、何処で作物を作ってもいいし、気が向けば釣りに行く。村のゴルフの会に入って、ハンデキャップも14に成ったと、楽しそうに話す彼を見ていると、つくづく何処で暮らすのが幸せなのかを考えさせられた。リタイヤしても適度の人間関係や人付き合いが保たれて、周りに拘束される事もなく地域貢献が出来る環境がそこにあるのだ。
 新しく移住した先で、人々に受け入れられて地域に浸透すると、そこにとても居心地のいい場所が出来るように感じた。でも、やはり地域に溶け込むまでには、多少の努力がいる事も、彼はサラット言っていた。
 彼の來阪で私ともう一人、大阪に住むK君と三人、大阪南の宗右衛門町で食事をして、近況と昔話に花を咲かせる楽しい時間を過ごす事が出来た。

2011年4月17日日曜日

遠い記憶の詩

 可笑しなもので、私はこの時期になると、  どういうわけか三好達治の詩を思い出す。
その詩は、自分では、中学生の頃の国語の教科書に載せられていた詩だと思っているが、その詩について、特別、誰かと話し合ったりした分けでもなく、試験に出題されるというので覚えたという分けでもないと思っている。ただ、私は特別、詩を好んで読んだ記憶も無いので、其の時の自分の頭の中に、何かインプットされるような言葉の響きがあったのだろう。
 あわれ花びらながれ、おみなごに花びらながれ、、、で始まる、三好達治の詩集「測量船」の中に収められている、「甃(いし)のうえ」という題名の詩なのです。

                 甃(いし) の う へ

            あはれ花びらながれ                  
            をみなごに花びらながれ
            おみなごしめやかに語らひあゆみ
            うららかの跫音(あしおと)空に流れ
            おりふしに瞳をあげて
            翳(かげ)りなき寺の春をすぎゆくなり
            み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
            廂(ひさし)に
            風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
            ひとりなる
            わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
                              
                              (詩集「測量船」より)
 
 私は高校を卒業して、京都の同志社大学に進んだ。同志社のキャンパスは南側が御所で東の
女子大の奥は、相国寺という禅宗のお寺になっていて、周りの環境が、この詩のシチュウェイションを思い起こす環境であることも、学生時代から、しばしば思い出していた理由なのかも知れない。 


             ああ風で花びらが流れる 
             歩いてくる娘達の上に花びらが流れる
             娘たちはしとやかに話しながら歩いている 
             のどかな足音を響かせながら
             時々に花をあをいで
             春の陽を受ける寺のそばを通り過ぎていく
             寺の瓦は緑色に映え 
             ひさしに 
             静かに風鐸が吊り下げられている 
             私は一人で
             自分の影をい石畳に見ながら歩いていこう   (Craft爺)
 
 もう、季節の歩みは速く、桜の木々は花びらを散らして、若葉が覗き始めている。
我が家の周りも、時々に、吹く風で花吹雪が舞うほどだ。
 桜の季節が終わりに近づくと、自宅近くの椿が花を付け、つつじの蕾が膨らみ始める。間もなく、花水木も花をつけ始めるのです。
                                               

2011年4月16日土曜日

原子力と行政組織

 今回の、東日本大震災の発生で、私は自分の既成概念に少なからぬ影響を受けたのかもしれないと思っている。民間企業に就職して、定年まで一つの会社に勤めた経験しか持たない私は、様々な世の中の出来事を、その狭い視野でしか見ていない事に自分ながら気が付いていた。
 
 しかし、そうした認識の下でも、私の興味は、主に世の中の仕組みに目が行きがちで、特に政治的な仕組みや経財界、官僚組織等の互いの係わり合いに、目が注がれがちだ。そうかといって、Twitterでぼやく以外は、週刊誌を読み漁たり、財界や官僚のゴシップを探すというわけでは無いのです。

 戦後、私が育った過去を振り返ってみると、自分の生涯の大部分が日本の復興と成長の時期に符合している事と、その後の、登り詰めた後の日本の社会を見てきた思いがする。そして、世の中に出て、一民間企業で、たまたま、多くの企業の価値の尺度に関わる仕事についた事、その事が、時々の景気循環や政治状況に大きく左右される場面を見てきた事で、おのずと、政治体制や財界、官僚機構や行政組織に興味を持って来たのです。

 まず、今回の大震災の発生で、未曾有の災害に見舞われた東北の地で、自ら被災しながら、ひたすら、地域住民のために昼夜分かたぬ働きをしている地方の公務員がいることと、救助に向かった10万を越える自衛隊員、消防、警察関係者の懸命の働きを見て、彼らの公務員としての使命感以上の人間としての働きを見た思いがしました。

 今まで、私はともすると、国の官僚組織や地方行政組織に対して、一括りに批判的な目で見てきた。特に国がそうだから、地方も右に習え的に既得権を張り巡らし、国民の税金でぬくぬくと暮らしをむさぼっているように批判的に見てきたのです。しかし、今回の報道を見ていて、地方には、今でも素朴に、公僕として住民の為に働く公務員がいること、命を掛けて救助に向かう自衛隊員や消防隊員、警察官がいることを目の当たりにしました。

 では、永田町にいる政治家や霞ヶ関にすまう国家公務員は如何なのでしょうか、中央に集う政治家や、その政権から、今はじかれている国の官僚達は確り国民の為の仕事をしているのでしょうか。今度の、大震災による大津波で福島第一原子力発電所が被災し、世界が懸念する、大事故に発展して来ています。

 この、福島原発の事故の状況やその後の東電や原子力行政を主導してきた構図を、ちょっと、調べているうち、やっぱりかという思いがしてきたのです。原子力事業を自分達の既得権益に繋げている、政治家、国の省庁と持たれ合いの電力事業者、原発を主導する御用学者達の構図が浮かび上がってきました。これは、何が何でも安全性が最優先されるべき原子力行政が、中央でのもたれあいで、ないがしろにされて来た構図ではないかと言う疑問です。
 
 東電は2007年7月18日の中越地震で、柏崎刈羽原発が極めて深刻な事故に発展しかねない状況があったにも関わらず、今回の事故にその教訓を生かす事が出来なかったという事実も出てきました。内閣府に設置されている、原子力委員会と原子力安全委員会は、夫々、委員会として推進役と規制機関という正反対のものが同舟しています。経済産業省の中の組織である、原子力安全保安院と資源エネルギー庁はその性格上規制と推進という相反する組織がここにも同舟しているのです。今、巷では、そこに関わってきた個別の人たちの事が取りざたされてきています。

 東京電力の原子力事業の建設推進は国と業界による二人三脚なくして、ここまで建設が進む事は無かったと思うのです。政界と電力業界のもたれあい、経済産業省と電力業界との間の天下りの構図、その中の原子力安全委員会や、経産省の安全保安院、それに原子力安全基盤機構などと言う組織が、何の為に設けられているのか、毎年の、4,000億を越える国の原子力関連予算と共にもう少し調べていけば、私でもゴシップ週刊誌を発行する事が出来るかも知れません。

 確かに、稀に見る大地震によって、想像を絶する大津波が東北沿岸部に押し寄せた。しかしそこに建設した原子力発電所は、いかなる事態でも事故を起こす事が許され無い原子力の事業ではなかったのか。そこには、やっぱり、自分達の都合だけを基準にした人間達のエゴの構図が見えてくる思いがするのです。採算性や推進在りきで、本来の安全性が、本当に突き詰められていたのでしょうか。

 日本の政党政治、政権と官僚組織を構成する人間達、そこにコネクションを求める財界組織、また、そこに入り込む学術関係者など織り成す彩が絡み合って、解こうとして解け様も無い状態に見えます。しかし、この最大の日本の危機が、ここからの日本の再生に繋げる為には、こうした、自己本位の権益に群がる社会的構図をどう壊していくかに掛かっているのではないでしょうか。

 大震災からの復興と、現在進行形の原発事故と言う国家的大災害の復旧と検証が、新しい日本の将来の為に、今後必ず求められると思うのです。