2011年6月6日月曜日

「縁無き衆生」

 新聞に載っていた週刊誌の広告見出しに、「度し難し」という言葉が載っていた。「度し難し」なんて、目にする事も、耳にすることもあまり無い。そこで、調べてみると、度し難しというのは、救いようが無いという意味と言うことだ。そしてその言葉は、「縁無き衆生は度し難し」と言う仏語に由来する諺にあると書いてあった。
 縁とは機会と言う意味で、衆生とは人のこと、それに度しは救う事を意味し、難しで出来ないと言う否定になる。その仏語の前後には、お釈迦様がどんなに偉くとも、その教えを聞こうとしない人まで救う事は出来ないと言う意味で、その事から、人の忠告を聴こうとしない人は救いがたい、と言う時に使う諺だとの事だった。
 戦後に育った私達は、まだ戦前の道徳教育を受けて育った親達も若く、事あるごとにその影響を強く受けながらも、主に、戦後の民主主義や米国流の個人主義教育の中で育った。そして、私達の子供は、日本の戦後の高度成長とより自由な個人主義的教育のなかで、より個性を尊重する教育を進めらる中で育ったと思うのです。

 ここに来て、現在の日本社会の状況を憂うる話や記述を目にすることが多くなったが、1990年あたりから、日本の経済成長はピークを越え、今日まで長い停滞の時期を経てきた。日本の元気な時代を生きてきた私達にすれば、今の日本はどうなってしまったのかと憂うる事しきりだが、より深刻だと思うのは、社会も家族も個人さえもが、ばらばらになって協調性や連帯性が急速にに希薄になってしまった事ではないだろうか。しきりにマスコミなどで、無縁社会と言う言葉が語られる。
 個人主義や画一的で無い個性を尊重する考え方は、世界の自由主義と民主主義が成熟する中で主導権を握ってきたが、その道がそれて間違っていないかを警戒しなければならない。
過去からの歴史は常に時間軸を別にして、行きつ戻りつの繰り返しで形成されて来た節がある。
 そこで、「縁無き衆生は度し難し」だが、個人がその考え方や生き方を主張するだけでなく、その生き方が謙虚で有る事と調和させ無ければ成らないと思うのです。
 「唯我独尊」と言う言葉もありますが、行き過ぎて、自分だけ良ければ良いという風潮があまりにも目立つと思いませんか。家庭は核家族化、終身雇用から非正規社員へ、それが行き着いて、とうとう無縁社会と言われるまでになっていないでしょうか。
 日本国を運営する政治が今のような状況に陥っているのも、元はといえば私達一人一人(周りに無関心な個人主義)のせいかも知れません。日々の生活の中で、少しは謙虚に人の言葉に耳を傾ける事、その上で身を処して行く事が求められるのかも知れませね。

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