今朝、朝刊に目を通していたら、「戦争直後、日本人はあっという間に過去を捨て去った」とある著作で述べている、と著作家の半藤一利氏の記述が紹介されていました。
それは、<近ずく総選挙で考えたいこと>と言うコラムの中で、日本人はどんな価値観なり行動原理を持った国民なのかを論ずる記述の中での事でした。曰く、「日本人は、目先の利益に敏感」、又、他の記述で「日本人は、際立って世俗的だ」と言うものでした。
確かに、現民主党内閣による、この夏を控えた大飯原発の再稼働にしても、極めて現実的で、世俗的な目先の利益優先の決断に他ならないと思えるのです。日本をリードする政府がこの決定ですから、企業を経営する財界の総意などは、言わずもがなではないでしょうか。
日本の大震災による福島第一原子力発電所の事故を受けて、世界の原発保有国では、様々な議論が巻き起こり、ドイツは2022年に、スイスでは2034年には、国内の全ての原発の廃炉のスケジュールが既に決定されています。
所が、原発の事故を起こした我が国の政府では、国の将来を考えた正しく冷静な議論がなされているのでしょうか。衆議院選挙を控えて、将来の脱原発の政策の取り扱いを、政権公約に取り入れるかどうかが、しぶしぶ論議されると言った具合では無いなかと思うのです。
近い将来、起こる事が想定される東海・東南海の高域地震の未曾有うの被害想定が発表される中で、現実の福島第一原子力発電所事故の収束に目途さえ立っていない現状を踏まえても、日本の政治を担う政治家達に、その決断に方向性が出されないのは如何言う訳なのでしょうか。
事ほど左様に、日本社会の有るべき統治能力が、程度は測りかねますが、相当の部分で機能不全に陥っていると思われて成りません。
物事に働く慣性の法則、「作用・反作用の力」を思い浮かべます。有る一方方向の動きが行き着く所迄行くと、海の波が打ち返すように、逆向きの働きが作用すると言う事が社会現象の中でも考えられ無いでしょうか。一方向の力が大きければ大きいほど、打ち返しの力は、強く大きなものに成ると思われます。
そこで、冒頭の日本人の極めて世俗的で、目先の利益に敏感な国民性が懸念されるのです。
既存の政治が、極端に国民の期待を裏切ると、そこには極めて世俗的な国民世論を見方に付けた、又別の懸念が生じてくるのではないかと懸念されるのです。
前回の総選挙では、自由民主党にほとほと愛想を尽かせた大方の国民が、民主党が掲げた甘いマニュフェストに乗って、日本の戦後の選挙史上初めての政権交代を起こしました。しかし、この3年、国民の期待は、その発足間もなく、無残にも裏切られる結果と成ってしまいました。
国民世論を味方に付けた一握りの集団が、過激に反作用の支持を取り付けた場合の恐ろしさは、近代では第二次世界大戦前のドイツのナチスを想起させます。
現代社会に、あの様な事が起こる訳がないと思いたいのですが、人間の過去何千年もの営みは、殆どその生き様として変わることが無いと考えるのが妥当ではないかと思うのです。
日本の近代でのアジア侵略の歴史は、今もその国の教育の中で後世の若者に引き継がれ、止め様も無いナショナリズムの高揚を見る事が出来ます。
私達の社会の歩みの中で、形を変え、様々な事が社会で繰り返されて来たと考えるのが妥当ではないかと考えるのです。
機能不全に陥ったかに見える社会の中でも、懸命に多様な可能性について議論を尽くす社会で有ってほしいと思うのと同時に、自らも冷静な視点で物事を捉えたいと考えます。
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